神道の教えの根本にございます「誠(まこと)の心」とは、私たちが生まれながらに天より授かった、嘘偽りのない清らかな心でございます。
けれども、人はときに迷い、心を曇らせることもございます。そのたびに立ち止まり、自らの言葉と行いを省みる。心身を浄く保ち、明るく朗らかに、偽りなく正しく、素直に過ちを改める。
この「浄・明・正・直」の四つの徳を日々の行いに表すことが、「浄明正直(じょうめいせいちょく)」の道でございます。そうして本来の清らかな心へ立ち返ろうとする、日々の願いと努めによって、まことの心は育まれてまいります。
まことの心は、日々の暮らしの中では、良心の声として現れます。
「良心」という言葉は、中国の古書『孟子(もうし)』に由来いたします。孟子は「人の学ばずして能(よ)くする所の者は、其の良能なり。慮(おもんぱか)らずして知る所の者は、其の良知なり」と申しました。学ばずとも行うことができ、思いめぐらさずとも善し悪しを知る。そのはたらきが、生まれながらの心に具わっているのでございます。
良心は、大きな声で命ずるものではございません。迷いの中で、心の内から静かに問いかけてくる、小さな声でございます。
神通力と申しますと、古くから仏の教えに「六神通(ろくじんずう)」が説かれてまいりました。どこへでも自在に至る神足通(じんそくつう)、あまねく見通す天眼通(てんげんつう)、遠き声を聞き分ける天耳通(てんにつう)、人の心を知る他心通(たしんつう)、過ぎし世の因縁を知る宿命通(しゅくみょうつう)、そして迷いを断ち尽くす漏尽通(ろじんつう)。いずれも、深い修行の果てに開かれる力とされております。
これに対しまして、神道で申します神通力とは、神々と通じ、その御心をうかがう力のことでございます。遠く特別な力のように思われるかもしれませんが、その道の入り口は、まず己の心を静め、浄めることにございます。
浄明正直の心を説く、伊勢の神道書、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』にはこう記されております。
「心神は則ち天地の本基、身体は則ち五行の化生なり。
肆(ここ)に元を元とて元初に入り、本を本とて本心に任せよ。
神は垂るるに祈祷を以ちて先と為し、冥は加ふるに正直を以ちて本と為す。」
人の心は天地の本(もとい)に通い、身体は五行の気より生じたものである。ゆえに、元を元とたずねて初めに立ち返り、本を本として本来の心に任せよ。そして、神が御力を垂れたまうにあたっては祈りが先であり、目に見えぬ加護がはたらくにあたっては正直が本であると書かれております。
ここに申します正直とは、ただ嘘をつかぬことではございません。おのれを正しきへと直(なお)す心、過ちに気づけば素直に改めて、本来の清らかな心へ立ち返る、その正しく直る心でございます。
良心の小さな声に耳を澄ますことは、神々の御心へ近づくための、大切な修めの一つでございます。心が私欲や思い込みに曇っていては、自らの願いを神意と取り違えかねません。
心を浄めることは、神々へ近づくと同時に、その御心をまっすぐに受け止める器を整えることなのでございます。
暦を読むこともまた、単に吉凶を知り、一喜一憂するためではございません。
暦は、その日の神々の気の巡りを知らせ、己の心と行いを整えるための道しるべでございます。良き日には感謝を深め、慎むべき日には身を省みる。その巡りをどのように受け止め、どのように過ごすかは、人の側に委ねられております。それゆえ、神社仏閣の祭祀も、古くより暦に沿って日取りを定め、斎行することが大切とされてまいりました。
中国の古書『太上感応篇(たいじょうかんのうへん)』には、「心に善を起こせば、善いまだ為さずと雖(いえど)も、吉神已(すで)にこれに随(したが)う」とございます。善き心の起こるその時には、行いにあらわれる前から、すでに吉き神々が寄り添うてくださる、という意でございます。
日々、まことの心をもって暦に向き合い、今日の言葉と行いを整えること。その積み重ねこそが、神々との御縁を深め、天地の理に沿って歩む第一歩となるのでございます。