吉凶と
神々の繋がり
吉凶と神々の繋がり
暦を開くと、天赦日や一粒万倍日のような吉日があり、不成就日のような凶日がございます。時折、このように尋ねられることがあります。凶の日には、神々はおられないのでしょうか、と。
そうではございません。凶の日にも、神々は変わることなく働いておられます。吉凶とは、神々がおられるか否かを示すものではなく、その時、どのようなお働きが顕れているかを示すものでございます。
太一の気の巡りには、大きく二つの局面がございます。
一つは、与える局面。芽を出させ、育て、広げ、実らせる働きです。もう一つは、切り整える局面。伸びすぎたものを整え、役目を終えたものを収め、次の巡りに備える働きでございます。
秋の気が草木を枯らすのは、ただ命を絶つためではございません。実りを蔵に納め、新たな巡りへ移るためです。切り、収め、整えることもまた、天地の巡りに欠かすことのできない神々のお働きでございます。暦が吉と記す日は、与え、育て、広げる働きが顕れやすい日。凶と記す日は、切り、収め、調え直す働きが顕れやすい日。どちらも同じ神々が顕される、異なるお顔でございます。
近年、一粒万倍日や天赦日は、運の良い日として広く知られるようになりました。けれども、吉日とは、ただ待っていれば福が降りてくる日ではございません。一粒万倍日とは、播いた一粒の種が、やがて万倍にも実るとされる日でございます。そこで実るものは、自らが播いたものです。善き種も、粗き種も、巡りの中ではともに育ってまいります。だからこそ、何を思い、何を始め、どのような心で行うかが大切になります。
天赦日もまた、願いが何でもそのまま叶う日ということではございません。天が万物を生かし、これまでの過ちを赦し、改まって歩み始めることを許す日でございます。神々への感謝を胸に、自らを省み、新たな心で一歩を踏み出す節目として受け止めることが大切です。
鎌倉時代の『御成敗式目』は、その第一条に、次のように記しています。「神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う」。神々のお力は、人の敬いによっていよいよ顕れ、人は神々の徳をいただくことによって、その歩みに運を添えられるという教えでございます。吉日であるというだけで、無条件に福が授けられるわけではございません。神々への感謝を忘れず、その巡りにふさわしい心と行いをもって歩むとき、人は八百万の神々の気の流れと歩調を合わせることができるのでございます。
では、運が良いとは、どのようなことでしょうか。
当宮では、運とは単なる偶然の幸不幸ではなく、神々の徳をいただきながら、自らに与えられた道を歩む中に添えられるものと受け止めております。『書経』には、「善を作せば之に百祥を降し、不善を作せば之に百殃を降す」と説かれています。善き心と行いは吉祥を招き、不善の積み重ねは、やがて望ましくない巡りを生じさせるという教えでございます。
されど、人の世に起こる苦難のすべてを、その人の善悪のみで量ることはできません。人知の及ばぬ巡りもまた、天地の間にはあるからです。大切なのは、起きたことによって人を裁くことではなく、どのような時にも自らの心と歩みを省み、善き道へ戻ろうとすることです。
神々は、万物の一つ一つに、天地の巡りを担うための役割をお与えになっています。『中庸』にいう、天命でございます。己に与えられた天命に心を向け、その道を誠実に歩もうとすること。それが、吉に通じる善の道でございます。敬いを胸に、善き心でその流れに沿おうとする者に、神々は徳をもって運を添えてくださると受け継がれております。
この運の巡りを、決して軽く見ることはできません。『論語』には、君子は天命を畏れ、小人は天命を知らないがゆえに畏れない、と説かれています。厄年や凶年の重さも、その年かぎりで終わるものではございません。『易経』にも、「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」とございます。善も不善も、一時のことだけではなく、積み重なることによって、後の道筋にまで及ぶと説かれております。
切り整える巡りの時に歩みを誤り、粗き種を播けば、それもまた後に育つことがあります。反対に、その時に立ち止まり、慎み、行いを正し、善き種を播き直すならば、向かう先を調え直すこともできるのでございます。だからこそ、古の人々は厄を重んじ、慎みを尽くしてまいりました。厄とは、ただ恐れるためのものではなく、いつも以上に慎み、自らの暮らしと行いを省み、これからの歩みを調えるための大切な節目でございます。日々の凶日も、その理は同じです。
けれども、歩む道は閉ざされておりません。凶日とは、罰を受ける日ではなく、自らを省み、歩みを調え直すための日でございます。心の淀みに気づき、改めるべきところを改めれば、その先の巡りもまた変わってまいります。凶の日には、むやみに物事を広げるよりも、慎み、身と暮らしを整えることが大切とされます。積もった陰気の淀みについては、気の巡りに沿って祭祀の日取りを定め、祓えを修め、神々のお働きによって調えていただきます。神々のお働きに逆らうのではなく、その巡りに歩調を合わせて歩むならば、凶の巡りはただ人を損なうものではなく、行き過ぎを収め、歩みを正すための節目となります。
吉日には感謝をもって始め、凶日には慎んで整え、善き心で天命の流れに沿って歩む。それが、神々のお働きに歩調を合わせるということでございます。
その歩みは、遠いところにあるものではございません。それぞれの土地には、そこに住まう人々を永くお守りくださっている社寺様がございます。日々の暮らしの中で神々に心を向け、折々にお参りをして、日頃のご加護に感謝を捧げることは、神々とのご縁を結び直す大切な営みでございます。
運勢を良き方向へ調え、災いを遠ざけ、神々のご加護をいただく道は、特別な日のみにあるのではなく、日々の敬いと慎み、そして善き行いの積み重ねのうちにございます。