土御門文書編纂所 · 古典籍 · 密教の典籍
般若心経秘鍵
空海(遍照金剛)撰
般若心経を密教の立場から読み解いた書です。経題、経文を内容に応じて分けた五つの区分(科判)、真言の意味を順にたどります。
明治42年刊『弘法大師全集 巻3』を底本とした注付き読解版です。原本との照合と独立した校閲を経て、原文・句読・訓読・現代語訳・注記の確認を終えました(2026年9月13日)。梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えています。各区分の注記と原本画像を併せてご覧ください。
本文に続く上表と、後世の編者注は別の資料として区別しています。ここに記す説明は本書の読解であり、天社宮の教義・作法として定めるものではありません。
本文・序
題・撰者
HK-001 · 底本 138頁 · 校了
現代語訳
『般若心経秘鍵』序を併せる。遍照金剛(空海)著。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 遍照金剛を空海とする説明を訳で補った。
序偈
HK-002 · 底本 138頁 · 校了
現代語訳
文殊の鋭い剣は、実体のない議論への執着を断ち切る。諸仏を生む母である般若を表す梵字は、人々を導く師である。ここに示す二つの梵字の真言を種子として、あらゆる教えをそのうちに収める陀羅尼である。果てしない生と死の繰り返しを、どうすれば断ち切れるのか。それには、心を静める禅定と、正しい思惟とがある。この尊の三昧を説くにあたり、私は人々への慈しみから、先師に遠慮して退くことはしない。私はいま、その徳と教えを讃えて述べる。どうか慈悲を垂れていただきたい。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。

参照読み:dhiḥ・maṃ
般若菩薩と文殊の種子字。参照研究注31はdhiḥ/dhī/dhīḥ等の異綴りを説明する。底本の長短母音を一律に改めず原字図を正本とする。
底本画像- 覚母は般若、諸戯は実体視に基づく戯論として読んだ。
- 「尊者三摩仁不讓」は「尊の三昧を説くことについて、慈しみから先師に遠慮しない」と読む。『論語』衛霊公篇「當仁不讓於師」と後段の顕密問答に対応する読解で、Dreitlein(高野山大学密教文化研究所紀要24、12頁注34)もこの理解を採る。
- 古注には「尊者」を般若菩薩または文殊とする説、「不讓」を教えをみだりに授けないとする説もある。本訳は異説を唯一の意味に統一せず、上記の読解を採用した。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
序・佛法は心中にある
HK-003 · 底本 138頁 · 校了
現代語訳
仏の教えは、遠くにあるのではない。自分の心のうちに、すぐ近くにある。真実そのもののあり方である真如も、自分の外にあるのではない。この身を捨てて、いったいどこに求めようというのか。迷うか悟るかは自分にかかっているから、悟りを求める心を起こせば、そこに到る。心が明るいか暗いかも他人のことではないから、信じて修めれば、たちまちその真実を証しうる。ああ、哀れなことだ、長く眠り続ける子らよ。ああ、苦しく痛ましいことだ、狂ったように酔う人々よ。ひどく酔い狂った人は酔わない人を笑い、深く眠りこむ人は目覚めた人を嘲る。医王である仏の薬を尋ねようともしないで、いつ大日如来の光を見ることができよう。心を覆う障りには軽重があり、悟りに到るにも遅速がある。教えを受け取る資質は同じではなく、性質や求めるものも異なっている。そこで二つの教えは異なる道筋を取り、金剛と蓮華の場に分かれることになった。また五つの乗り物に譬えられる教えは、くつわを並べて進みながら、幻影のような世界の囲いのうちで足取りをとどめている。それぞれの毒を解くため、与えられる薬も異なる。慈しみ深い父が子を導く方法、その大筋はここにあるのであろう。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 医王は仏を指す譬えとして訳した。
- 「二教」「金蓮」には古注の異説がある。覚鑁『秘鍵略註』(大正57、14頁上)は金剛・胎蔵の両部として、顕密二宗とは区別する。一方、済暹『開門訣』は顕密二教に即して解釈する。本訳は「二つの教え」「金剛と蓮華」とし、いずれかの配当を原文そのものとして断定しない。
- 「隨其解毒」は、毒に譬えられる迷いを除くのに応じて薬としての教えが異なる、と読む。『開門訣』は顕密の利益の相違をまとめる句とする。
- 踠跡は馬の歩みをとどめる意の譬えとして読んだ。
心經に含まれる諸敎
HK-004 · 底本 139頁 · 校了
現代語訳
『大般若波羅蜜多心経』とは、大般若菩薩の大心真言による三昧の法門である。文章は紙一枚にも満たず、行数は十四行である。簡潔で要点を備え、短くても深い、といってよい。五蔵に収まる般若の教えも、この経の一句を味わって飽きることがない。七宗それぞれの修行とその成果も、この経の一行を讃え尽くせない。「観自在菩薩」という語では、諸々の乗り物として説かれる教えを実践する人々をまとめて挙げる。「苦しみを渡り、涅槃に至る」という内容では、それぞれの教えによって安楽を得ることを讃える。五蘊は迷いの対象世界を横に広く示し、三仏は悟りの心を縦の筋道に沿って示す。色と空を説けば、普賢は、すべてが妨げなく融け合うという意味に笑みを浮かべる。不生を論じれば、文殊は、戯論を断つ観察に顔をほころばせる。識の領域を説けば、識を選び取り保つ教えの側は手を打つ。対象とそれを知る智慧との区別を消し去れば、一つに帰する教えの側は心を喜ばせる。十二因縁は、犀の一本角に譬えられる独覚に、生起と消滅の道理を示す。四諦という教えの車輪は、羊の車に譬えられる声聞に、苦と空を気づかせる。まして、ここに示す「揭帝」に当たる二つの梵字は諸蔵の修行と成果を包み込み、続く二つの梵字は顕教と密教の教えをそのうちに宿す。一つ一つの音声と文字は、途方もない長い時間をかけて説いても尽きない。一つ一つの名とその内容は、塵や水滴ほど数多い仏でさえ究め尽くせない。このため、唱えて保ち、講じ、供養すれば、苦を除き、安楽を与える。修め習い、思いを凝らせば、道を得て、自在なはたらきを起こす。「きわめて深い」との呼び名は、まことにふさわしい。私は童子を教える機会に、ひとまず大綱と要点を取り、この経を五つに分けて解釈する。解釈した人は多いが、まだこの奥深い意味を汲み上げていない。翻訳の異同と、顕教・密教の違いは、後で述べるとおりである。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。

参照読み:ga・te
参照読みgate。gaとteの二字を示す。
底本画像
参照読み:pāra-・pārasaṃ-(文脈上の参照読み)
底本にはpra・su型の字形が見られます。ここでは、文脈と古注に基づき、波羅・波羅僧に対応する語として読みます。底本の字形は原字図に示し、参照読みと区別しています。
底本画像- 「十四行」は空海本文の説明であり、現在の表示行数ではない。
- 観在薩埵を観自在菩薩、麟角を独覚、羊車を声聞と説明した。
- 「簡持」「帰一」は教えとそれを体現する菩薩の両方にかかわる語。覚鑁『秘鍵略註』(大正57、14頁下〜15頁上)は簡持を唯識・法相、人物では弥勒、帰一を天台法華、人物では観音とする。本訳は教えの側を主語として補った。
- 覚鑁『秘鍵略註』(大正57、14頁中)は五蔵を経・律・論・般若・陀羅尼、七宗を律・倶舎・成実・法相・三論・天台・華厳と説明する。本文中の「七宗」そのものに宗名は列記されていないため、現代語訳は七宗の語を保った。
- 三仏の分類は訳で断定せず、修行の効能は本文の宗教的主張として訳した。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
諸敎を含むことへの問答
HK-005 · 底本 139–140頁 · 校了
現代語訳
ある人が問う。「般若は第二の段階に当たる、まだ究極を明かし尽くしていない教えである。それが、どうして第三の段階に当たる、真意を明らかにした経典を包み込めるのか。」これに対し、如来の説法は、一字のうちに五乗の意味を含み、一念のうちに三蔵の教えを説く。まして、一部の経典、一つの品であれば、何が欠け、何が含まれないというのか。亀甲の兆し、卦、爻、筮に用いる蓍草は、あらゆる事象を含んで尽きることがない。帝釈天の宝の網も、帝釈天に由来するとされる声論という言語の学も、あらゆる意味を含んで尽きることがない。反論する人はいう。「そうであるなら、以前の優れた仏法の師たちは、なぜそのように語らなかったのか。」答える。「聖なる人が薬を与えるのは、受け取る人の資質の深さ浅さに応じてのことである。賢い人が語るか沈黙するかは、時と人を待って決める。私には、以前の師が語らなかった事情はまだわからない。おそらく、語るべきことと語るべきでないことがあり、語るべきでないことは語らないのである。語るべきでないことを語る過失については、判断を智慧ある人に委ねるほかない。」
原文翻刻
句読本文
訓読
- 「第二未了」「三顕」は問う側の法相の三時教判に即した語。「三顕」を三乗の顕教とせず、第三時の顕了の教えと読む。覚鑁『秘鍵略註』の当該注による。
- 「帝網」「声論」は別々の譬え。前者は帝釈天の宝網、後者は帝釈天に由来すると伝えられる言語学。済暹『開門訣』(大正57、33頁中)に両語を分けた説明がある。
- 「可言不言/不言不言/不言言之失」は底本の反復を維持し、済暹『開門訣』(大正57、33頁下–34頁上)の読みを採る。言うべきことと言うべからざることを区別し、後者を説く過失を智者の判断に委ねる、という構文。
- 原寸画像で「龜卦爻蓍」と確認した。亀甲・卦・爻・蓍草を挙げる句として訳した。
經題・梵漢の別
HK-006 · 底本 140–141頁 · 校了
現代語訳
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」。この題名を考えると、二種類の語がある。梵語と漢語の違いである。いま「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と呼ぶのは、インドの語の音写と漢語とを交えて挙げたものである。「説」「心」「経」の三文字は漢語の名で、残る九文字はインドの語を写した呼び名である。梵語の名をすべて示すと、底本に掲げる一行の梵字となる。最初の二字は、完全に悟った者を表す名である。次の二字は、秘密の教えの蔵を開いて悟らせ、甘露を与えることを表す呼び名である。次の二字は「大きい」「多い」「すぐれている」という意味を立てる。次の二字は、心の安定と智慧に基づいて名を立てる。次の三字は、なすべきことをすでに成し遂げたという意味で名づける。次の二字は、中央に位置するという意味を表す。次の二字は、糸で貫くこと、収めて保つことといった意味で、その語を明らかにする。全体の意味から説けば、これらにはいずれも「人」「法」「譬え」が備わる。この題名は大般若波羅蜜多菩薩の名であるから、それが「人」である。この菩薩は、法曼荼羅としての真言による三昧の法門を備え、その一字一字が「法」である。そして一つ一つの名は、世間で用いる浅い意味の名によって、法そのものの性質にかかわる深い名を表す。その点が「譬え」である。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。

参照読み:Buddhabhāṣā-mahā-prajñāpāramitā-hṛdaya-sūtraṃ(参照読み)
図版に底本の全梵字を保存した。参照研究注63は別表記buddhābhasa/pramita/hṛda等と標準形の差を指摘する。ここに添えるのは読解用の参照読みであり底本の厳密翻字ではない。
底本画像- 本文にある梵漢分類・字群の数・語義解釈を訳し、現代の言語学的語源解釈と同一視しない。
- 「此菩薩具法曼荼羅眞言三摩地門」は、この菩薩が法曼荼羅である真言による三摩地の法門を具える、と読んだ。直後の「一一字卽法」が法を文字と結び付け、前段「大心眞言三摩地法門」とも対応するためである。法曼荼羅・真言・三摩地を無関係な三項目には分けない。
- 覚鑁『秘鍵略註』の種子字の説明は、各文字を法曼荼羅あるいは法智印とも呼ぶ。これを文脈の補助とし、題名の人・法・喩の三義を保持した。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
異譯と出典
HK-007 · 底本 141頁 · 校了
現代語訳
この三昧の法門は、仏が鷲峯山において、舎利弗らのために説いたものである。この経は、何度か翻訳されている。第一は鳩摩羅什三蔵の訳であり、いまここで解説する本文がそれに当たる。次は唐の遍覚三蔵の訳である。題名に「仏説摩訶」の四字がなく、「五蘊」の後に「等」を加え、「遠離」の後から「一切」を除いている。また陀羅尼の後に効能の記述がない。次は大周の義浄三蔵の訳で、もとの題名から「摩訶」を省き、真言の後に効能の記述を加えている。さらに、法月三蔵と般若三蔵の訳には、いずれも序の部分と、教えを後に伝える流通の部分がある。また『陀羅尼集経』第三巻にも、この真言の法が説かれており、その経題は羅什の訳と同じである。「般若心」というのは、この菩薩に、身や心などを表す陀羅尼があるためである。この経にある真言は、そのうちの大心呪に当たる。この心真言に由来して「般若心」の名がつく。これに対し、ある人は「大般若経の核心を短く取り出したから『心』と名づけたのであって、別の説法の会座で説かれたものではない」といっている。それは、龍に蛇と似た鱗があるからといって、龍を蛇とみなすような見方である。この経は、全体を五つに分けられる。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 鶖子を舎利弗、羅什を鳩摩羅什と補った。遍覚は玄奘の尊称だが訳文では本文表記を保持した。
- 翻訳者への帰属、説法の場所、独立した説法としての成立は、空海本文の説明として訳した。現代書誌学に基づく事実確定ではない。
- 龍と蛇の譬えは、文章の共通性だけで両経を同一視することへの批判として読んだ。杲宝『宝冊鈔』(大正77、815頁上)に「龍有蛇之鱗。龍名不可云蛇」と説明される。
五分の科判
HK-008 · 底本 141–142頁 · 校了
現代語訳
第一の「人法総通分」は、「観自在」から「度一切苦厄」までである。第二の「分別諸乗分」は、「色不異空」から「無所得故」までである。第三の「行人得益分」は、「菩提薩埵」から「三藐三菩提」までである。第四の「総帰持明分」は、「故知般若」から「真実不虚」までである。第五の「秘蔵真言分」は、〔梵字図5〕から〔梵字図6〕までである。
第一の人法総通分には、因・行・証・入・時の五つがある。「観自在」という語は、修行を行う人を指す。その人にもともと備わる覚りである本覚菩提を「因」とする。「深般若」は、観察する智慧と観察される対象の法を示し、これが「行」である。空を照らし見ることは、覚りを証する智慧、すなわち「証」である。苦を超えることは、得られる成果であり、その成果が「入」である。その教えによれば、人と智慧は無数にあり、智慧の違いに応じて、修行に要する時も多様である。三生、三劫、六十劫、百劫など、教えに応じた修行の期間がある。また、妄執の違いを「時」と捉えるのである。
詩にいう。
観察する人は智慧を修め、五つの集まりである五蘊が空であることを深く照らし見る。
幾劫もの時を経て観念を修める者は、煩いを離れ、一つの心に通達する。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。
- 五つの区分・因行証入時の五項は底本に従う。
- 「三生・三劫・六十・百」は期間の列挙と読み、六十と百には「劫」を補って訳した。覚鑁『秘鍵略註』(大正57、15頁下)は三生を華厳、三劫を三阿僧祇劫、六十を声聞、百を縁覚の時劫とし、続く妄執を別項として釈す。
- 劫には年月による期間のほか、妄執の段階としての密教的解釈があるため、妄執の差別も「時」と呼ぶという趣旨を訳に残した。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
第二分・建立如來
HK-009 · 底本 142頁 · 校了
現代語訳
第二の分別諸乗分も、建・絶・相・二・一の五つに分かれる。最初の「建」は、建立如来の三摩地の門である。「色不異空」から「亦復如是」までがこれに当たる。建立如来とは、普賢菩薩の秘密の名である。普賢の完全な因の境地では、三つの法が互いに妨げ合わず一体となることを根本の趣旨とするため、このように名づける。また普賢は、すべての如来の、覚りを求める心と、実践しようとする誓願とを体現する身である。
詩にいう。
色と空は、もともと二つに分かれず、個々の現象とその真理も、本来は同じである。
三種は妨げなく融け合い、金と水をたとえとして、その根本の趣旨が示される。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 三法・三種の具体的な内訳および金・水の比喩の詳細は、この区分の原文には列挙されないため、訳文では補っていない。
第二分・無戲論如來
HK-010 · 底本 142–143頁 · 校了
現代語訳
第二の「絶」は、無戯論如来の三摩地の門である。「是諸法空相」から「不増不減」までがこれに当たる。無戯論如来という名は、文殊菩薩の秘密の名である。文殊の鋭い剣は、八つの否定である「八不」を自在に働かせ、誤った執着の心を断ち切るではないか。そのため、この名がある。
詩にいう。
八不は、実を離れたさまざまな議論を断ち切る。文殊こそ、それを行う人である。
独空は、究極の真理であり、その意味と働きは、きわめて奥深く真実である。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 八不は、原文では八項目を列挙していない。独空はこの著作の術語として保持し、単なる「何も存在しない」という意味に置き換えていない。
第二分・彌勒菩薩
HK-011 · 底本 143頁 · 校了
現代語訳
第三の「相」は、摩訶梅多羅冒地薩怛嚩、すなわち弥勒菩薩の三摩地の門である。「是故空中無色」から「無意識界」までがこれに当たる。大いなる慈しみの三昧は、安楽を与えることを根本の趣旨とする。原因と結果を示して理解を促し、現れと本性とを分けて論じる。認識だけがあると説き、認識の外に独立した対象があるという捉え方を退ける。その心は、まさにここにあるのではないか。
詩にいう。
人と法についての二つの我への執着は、いつ断たれるのか。三阿僧祇劫を経て法身を証する。
阿陀、すなわち阿陀那識が識の本性であり、幻のような影は、客と呼ばれる。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 底本の「示因果爲識」の「識」は原寸画像で確認した字形を保持する。「爲識」を、知ることを促すためという目的の表現と読み、前の「示因果」に係けた独自読解である。
- 「相性別論」「唯識遮境」を各々一まとまりに切り、現れと本性を別々に論じ、唯識によって外に独立する対象を退ける、と読む。Dreitleinの掲げる本文は「爲誡」だが、本訳の原文欄をその字に改めてはいない。
- 二我は人我・法我、三祇は三阿僧祇劫、阿陀は阿陀那識として説明した。
第二分・唯蘊無我
HK-012 · 底本 143頁 · 校了
現代語訳
第四の「二」は、「ただ五蘊があって我はない」と観ずることと、「業の原因となる種を抜き去る」ことである。これが二乗の三摩地の門である。「無無明」から「無老死尽」までは、因縁を観察して覚る仏の三昧に当たる。
詩にいう。
風に動く葉から因縁を知り、輪廻から目覚めるには、どれほどの年月を要するのだろうか。
露や花から、迷いを生む種を取り除く。羊と鹿という二つの名は、互いに連なっている。
「無苦集滅道」は、一句五字であり、教えの声によって道を得る三昧である。
詩にいう。
白骨を見れば、我はどこにあるのか。青黒く変色した遺体を見れば、実体としての人は、もともと存在しない。
私の師となるのは四念処である。阿羅漢もまた、実体としてどこにあるというのか。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 二乗は声聞・縁覚をいう。唯蘊無我と抜業因種は二つの立場を示す語として訳した。
- 羊・鹿は二乗に関わる比喩として保持した。「白骨」「青瘀」は身体の不浄・無我を観ずる文脈であり、訳文の「遺体」は青瘀の対象を補ったもの。「実体として」は無我を述べる文脈を明確にする訳補。
- 「輪迴覺幾年」は「輪迴、幾年にか覚る」と訓み、覚りまでに要する期間を問う句とした。前段「二我何時断」とも対応する。Dreitlein(高野山大学密教文化研究所紀要24、30頁)および小淵尊史『秘蔵宝鑰』研究の当該頌の訓読とも整合する。
第二分・一道清淨
HK-013 · 底本 143–144頁 · 校了
現代語訳
第五の「一」は、阿哩也嚩路枳帝胃地薩怛嚩、すなわち聖観自在菩薩の三摩地の門である。「無智」から「無所得故」までがこれに当たる。この得自性清浄如来は、一つの道が清浄であることと、妙なる蓮が汚れに染まらないこととを、生きとし生けるものに開き示し、その苦しみと災厄を取り除く。「智」は到達する側の智慧を挙げ、「得」は証し得られる境地を指す。すでに真理と智慧の区別が消えるので、あえて「一」と名づける。『法華経』『涅槃経』等の、枝末をまとめて根本へ帰す教えは、この十字のうちに含まれている。諸々の乗の違いは、智慧ある者がよく考察すべきである。
詩にいう。
蓮を観察して、自分の本性の清らかさを知り、その実を見て、心に備わる徳に気づく。
一つの道において、働きかける側とその対象との区別は消え、三つの車も、言葉を離れた静けさへ帰る。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 「無智」から「無所得故」までの十字は「無智亦無得以無所得故」を指すものとして読解した。
- 阿哩也嚩路枳帝胃地薩怛嚩は、聖観自在菩薩の音写として訳した。三車は『法華経』の羊車・鹿車・牛車の比喩に関わる語だが、この区分の原文では内訳を列挙していない。
第三分・行人得益
HK-014 · 底本 144頁 · 校了
現代語訳
第三の行人得益分には、「人」と「法」の二つがある。まず人には七種がある。前の六種と後の一種であり、乗の違いに応じて、薩埵にも違いがあるからである。また薩埵には、愚・識・金・智の四種がある。次に法にも四つがある。因・行・証・入である。般若は、因となり、実践となるものである。心のとらわれがなく、妨げを離れることは、涅槃に入ることである。覚りの智慧を証し得ることは、成果を証することである。経文に即して考え、理解すべきである。
詩にいう。
修行する人の数は七、その法は二を重ねた四である。
円寂と菩提があり、正報と依報には、いったい何の不足があろうか。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 人の七種、薩埵の四種、因行証入の四項を原文どおり保持した。
- 「能證覺智」は「よく覚智を証す」と訓む。覚鑁『秘鍵略註』(大正57、17頁中)は「能證」を経の三世から得まで、「覺智」を阿耨から菩提までに配当する。現訳は証するはたらきと覚りの智慧を区別する。
- 「正依」は正報・依報の略。『秘鍵略註』は依を仏の住む浄土など、正をそこに住む仏身などと説明する。
第四分・總歸持明
HK-015 · 底本 144–145頁 · 校了
現代語訳
第四の総帰持明分も、「名」「体」「用」の三つに分かれる。四種の呪と明を述べるところは名称を挙げ、「真実不虚」はその本体を指し、「能除諸苦」はその働きを示す。名称を挙げる部分では、第一の「是大神呪」は声聞の真言、第二は縁覚の真言、第三は大乗の真言、第四は秘蔵の真言である。ただし、共通する意味からいえば、一つ一つの真言が、いずれも四つの名を備えている。ここでは、その一面を略して示した。円満な智慧を持つ人なら、残る三つの隅についても、この一つに即して理解できる。
詩にいう。
総持には、文と義とがあり、忍と呪も、すべて持明である。
音声と文字、人と法、その真実のあり方は、こうした名を備えている。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 四つの呪明の経文上の名称は大神呪・大明呪・無上呪・無等等呪。本段の原文は第一だけを明記するため、第二以下の経文名は編纂注に留めた。
- 文・義・忍・呪は、陀羅尼(総持)の分類を踏まえた表現。「忍」は単なる忍耐に狭めず、理解を確かに受け止める仏教術語として保持した。
- 「一隅」「三即帰一」は『論語』述而篇の、一隅から他の三隅を推し知る譬えを踏まえると読み、三つの教えを一つにまとめるという説明を補わない。
第五分・秘藏眞言
HK-016 · 底本 145頁 · 校了
現代語訳
第五の秘蔵真言分には、五つの部分がある。第一の〔梵字図7〕は、声聞の実践と成果を表す。第二の〔梵字図8〕は、縁覚の実践と成果を示す。第三の〔梵字図9〕は、諸々の大乗の、もっとも優れた実践と成果を指す。第四の〔梵字図10〕は、真言の曼荼羅において、すべてが備わって円満である実践と成果を明らかにする。第五の〔梵字図11〕は、ここまで挙げた諸々の乗が、究極の覚りを証してそこへ入る、という意味を説く。句ごとの意味は以上のとおりである。もし文字の表面的な意味である字相や、深い意味である字義などに即して解釈するなら、人や法等について無量の意味があり、幾劫を費やしても説き尽くすことは難しい。それを聞きたいなら、法に従って、さらに問いなさい。
詩にいう。
真言は思慮を超えたものであり、観想し、唱えれば、無明が取り除かれる。
一つの文字に千の道理が含まれ、この身のままで、法のありのままの真実を証する。
進みに進んで円寂に至り、行きに行って、もとの始まりへ入る。
三界は旅の宿のようなものであり、一つの心こそ、本来の住まいである。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。

参照読み:gate
声聞の行果に配当される箇所。
底本画像
参照読み:gate
縁覚の行果に配当される箇所。
底本画像
参照読み:pāragate(参照読み)
底本はpragate型である。標準的な参照読みに合わせて梵字図を改めない。
底本画像
参照読み:pārasaṃgate(参照読み)
底本はprasugate型である。標準的な参照読みに合わせて梵字図を改めない。
底本画像
参照読み:bodhi svāhā
菩提娑婆訶に対応する参照読み。
底本画像- ここでの五分の意味づけは著者の解釈であり、梵語そのものの逐語訳ではない。
- 「字相義等」は密教の字相・字義等の解釈法として読む。覚鑁『秘鍵略註』は淺略深祕・字相字義などを十六門として列挙する。字相は文字の見た目だけを指す語としては訳さない。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
眞言を釋することへの問答
HK-017 · 底本 145–146頁 · 校了
現代語訳
問い。陀羅尼は如来の秘密の言葉である。そのため、昔の三蔵や諸々の注釈家は、みな口を閉じ、筆を置いて説明しなかった。今、この解釈を作ることは、聖なる教えの趣旨に深く背くのではないか。
答え。如来の説法には二種ある。第一が顕、第二が秘である。顕教を受ける能力を持つ者には多くの名称と句を説き、密教を受ける根機を持つ者には総持の文字を説く。そのため、如来みずから、〔梵字図12〕字や〔梵字図13〕字等のさまざまな意味を説いた。これは密教を受ける能力を持つ者のために説いたのである。龍猛・無畏・広智等も、その意味を説いている。説くことができるか否かは、教えと、それを受ける者の能力とによるだけである。説くことも、黙することも、ともに仏の意にかなう。
問い。顕教と密教の二つは、その趣旨が天ほどにかけ離れている。今、この顕教の経典の中に秘密の意味を説くのは、適切ではないのではないか。
答え。すぐれた医師の目には、道で触れるものがすべて薬となる。宝を見分ける人は、鉱石の中に宝を見る。知ることと知らないこと、その過ちは、いったい誰にあるのか。また、この尊の真言・儀軌・観法を、仏は『金剛頂』の中で説いている。これは秘密の中でも、もっとも奥深い秘密である。人々に応じて姿を現した釈迦が、給孤園で、菩薩・天人のために画像・壇の作法・真言・手印等を説いたのも、秘密の教えである。『陀羅尼集経』第三巻がそれである。顕と密の違いは人にあり、音声や文字そのものにあるのではない。そのうえでなお、顕教の中の秘密、秘密の中のもっとも深い秘密というように、浅深が重なり合っているのである。
原文翻刻
句読本文
訓読
梵字の原字図
図版は底本の字形です。添えたローマ字は読解用の参照読みで、底本の厳密な翻字とは区別しています。
- 原文には「問」が二か所あり、応答の内容は続くが「答」の字はない。現代語訳だけに、発言の区別を明確にする「答え」を補った。
- 「能不」は説くことの可否として読解。「此尊」は本書の本尊を指す文脈だが、ここでは固有名を断定補入せず「この尊」を保持した。
- 三蔵は経・律・論に通じた僧への称号としての用法。引用される経典の所在は原文の主張として訳し、経典側との内容照合を済ませたという意味ではない。
- 梵字は底本の原字図を収録し、参照用の読みを別に添えた。ローマ字は底本の厳密な翻字ではない。
結偈・尾題
HK-018 · 底本 146頁 · 校了
現代語訳
私は秘密の真言の意味に基づき、『般若心経』の五つの区分を手短に讃えた。一字一文は法界のすべてに及び、終わりも始まりもない、私自身の心のあり方を表している。目を覆われた衆生は、盲いたようにそれを見ることができないが、文殊の般若の智慧は、もつれを解くことができる。この甘露を注いで迷う者を潤し、ともに無明を断ち、悟りを妨げる魔の軍勢を打ち破ろう。
以上、『般若心経秘鍵』。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 「曼儒般若」は「文殊の般若の智慧」と読む。覚鑁『秘鍵略註』(大正57、18頁中)は「文殊の般若」「文殊と般若」「文殊即般若」という三系統の解釈を列挙し、第一系統に文殊の智慧という読みを明記する。本訳はその読みを採用した。
- 底本146頁の「曼儒」を原寸画像で確認した。
付載の上表
附載上表
HK-019 · 底本 147頁 · 校了
現代語訳
その時、弘仁九年の春、天下に大きな疫病が流行した。そこで天皇は御自ら筆の先に金を含ませ、紺色の紙を御手にお持ちになり、『般若心経』一巻を書写してお供えになった。私はその講読を担当し、経の趣旨の根本を文章にまとめた。結願の言葉をまだ口にしないうちに、生き返った者が道に群れ集まり、夜が変わって、日の光が明々と輝いた。
これは私のような愚かな者の戒律を守る徳によるものではなく、天皇の御信仰の力がもたらしたものである。ただ、神の社に参る者たちは、この『秘鍵』をお唱え申し上げよ。かつて私は霊鷲山での説法の席に列し、この深い教えを直接聞いた。どうしてその意味に通じていないことがあろうか。
唐に渡った沙門、空海が上表する。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 底本所収の上表。以下はこの文章の記述を訳したもので、出来事の歴史的事実や空海の真筆を確定するものではない。底本の編者注は真偽の異説を記す。
- 「予範講讀之撰、綴經旨之宗」は「予、講読の撰に範(のっと)りて、経旨の宗を綴る」と句読・訓読した。現代語訳では、講読を担当して経の要旨を書き綴ったという趣旨を表した。底本の「範」は保持した。底本の句点配置をそのまま移したものではなく、既存訓読例を参照した独自の句切りである。
底本の編者注
編者注・傳來と眞僞の異說
HK-020 · 底本 147–148頁 · 校了
現代語訳
編者は述べる。右の『般若心経秘鍵』一巻は、古い刊本に基づいて収録した。この書の末尾に付く上表文は、もとは比叡山から出たものだが、伝来は明らかでなく、真偽についても争いがある。ある古い記録は伝来についての異説を示し、讃岐の覚城院の三等師による『心経秘鍵蛇鱗記』は、その真偽を詳しく論じている。ここに併せて掲げる。
ある古い記録には、次のようにある。『秘鍵』の上表文は、もと比叡山の文殊楼にあった。観賢僧正が護法神を遣わして、これを盗み取らせた。そのため『文殊楼記』には、大師の上表文が乙護法に盗まれた、とある。
別の説では、村上天皇の御代、応和元年、東寺の寛朝が勅命に応じて、天皇の御前で大師の十の称号を申し上げた。その席にいた山門の座主・延昌は、「弘法大師真筆の『秘鍵』上表文は私たちの山に伝わっており、山門の重宝です」と告げた。そこで、これを求める勅命が下った。天皇が御覧になったのち、高野山に送られ、御筆の『秘鍵』に付けて広めさせた。このことは式部太夫・敦光の記録に出ている。以上は、ある古い記録の趣旨を取ったものである。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 底本編者の説明と、その編者が掲げた伝来説を訳したもの。出来事を史実、上表を空海真筆と確定するものではない。
- 「或舊記」は「ある古い記録」の意味であり、特定の書名ではない。「覺城院」は覚城院と読む。
- 「乙」は底本本文の字として保持した。末尾の「已上或舊記取意」は底本の割注を括弧で表した。
編者注・蛇鱗記の上表批判
HK-021 · 底本 148頁 · 校了
現代語訳
『蛇鱗記』は次のように述べる。「六、縁起の真偽について」。現行の本の末尾にある六行半の文章は、空海の上表と称されている。そして、比叡山の仲胤已講が前唐院の蔵からこの上表文を見つけ、それが大師の真筆だという話が流布している。それ以来、この文が付けられて伝えられるようになって久しい。先人たちは皆、大師御自身の作だとしてきた。しかし私は、そうではないと思う。おそらく物好きな者が、大師の名を偽って、人々の信頼を得ようとしたのであろう。
なぜそう分かるのか。文章の言葉遣いは粗雑で、意味は浅く、とても優れた文筆家の筆とは思われない。試みに論じれば、次の七つの誤りを指摘できる。
一、文章が上表の形式になっていないのに「上表」と称している。
二、「経旨の宗を綴る」とは何をいうのか。また、まだ行為を終えていないことを「結願の言葉をまだ述べない」と表すのは、非常に粗雑である。
三、「蘇生族」から「赫赫」までの文章は、語の意味がつながっていない。
四、「私の智慧の力によるものではない」というべきところを、なぜ「戒律を守る徳によるものではない」というのか。
五、疫病で亡くなった者が生き返るのが天皇の写経の功徳によるなら、神社に参る者は経そのものを唱えれば足りる。わざわざ注釈書を読むよう勧め、仏への信を欺いて天皇を厚く礼遇するのはなぜか。
六、上表が述べる著述の経緯は、本文の「童に教える折に」などという説明と矛盾している。
七、文末の「而已」は助辞である。「豈」を先に置くなら、「哉」「乎」「耶」などで受ける。その字がなくても意味は通じる。この文章が並の書き手によることは分かる。
ああ、天皇の御信仰をたたえ、大師の徳を示して人々の敬慕を起こそうとしても、この跋文がなく、人々に疑念や不審を抱かせないことには及ばない。先輩の多くは信じているが、私は独りこれを疑う。
また、大師真筆のこの注釈書が醍醐三宝院の経蔵にあるという伝えがある。嵯峨大覚寺にあるともいう。その跋文には、「承和元年、甲寅。今年の仲春の月に、東大寺で『般若心経秘鍵』を作った」とある。道昌大法師が文章の意味を説き明かしたことからも、十分に裏付けられる。
以上、『蛇鱗記』。
原文翻刻
句読本文
訓読
- 底本編者が引用する三等『蛇鱗記』の上表批判を訳したもの。ここで述べられる真偽判断は引用文の著者の見解であり、本稿の確定判断ではない。
- 国文学研究資料館公開、善通寺宝物館蔵『般若心經秘鍵虵鱗記』(資料番号100178091)10・11コマを参校した。底本の「相似」「不織」「僧」を翻刻と句読層では保持し、訓読・現代語訳では参校本の「相傳」「不續」「信」に校訂した。
- 「爾來…尚矣」は、それ以来伝えられることが久しいという意味。「嗟聖主信、呈高祖德」は、聖主の信をたたえ、高祖の徳を示すと読んだ。
- 第五の批判は「讀疏」、すなわち経自体ではなく注釈書を読むよう勧めることへの批判。「優禮」は底本を保持した。参校本は「侵禮」。
- 第六の批判にいう「敎童」は、本文の「余敎童之次」を指す。上表が語る著述の経緯との矛盾を論じている。
- 末尾の人名は「道昌」、結びは疑問の「歟」ではなく「徵」。「足徵」は、裏付けとなる、十分確かめられるという意味。跋文の引用を「於東大寺」で閉じ、その後を『蛇鱗記』の考証として句読した。
- 「或云嵯峨大覺寺」は底本の割注を括弧で示した。参校本では「或說嵯峨大覺寺」。
- 「而已助語」の「語」は、同頁の「語意」の字形および参校本と照合した。
専門用語
訳文中の点線のある語を押すと、説明が開きます。
底本と凡例
空海『般若心經秘鍵 幷序』、祖風宣揚会編『弘法大師全集 巻3』、吉川弘文館ほか、明治42年(1909)刊。国立国会図書館所蔵、請求記号246-138、PID819268。本文138〜146頁、上表147頁、編者注147〜148頁を対象とします。自筆原本ではなく近代刊本の翻刻です。
原文翻刻では本文の漢字を採り、訓点・送り仮名・句読を除きます。梵字は図番号と対応する原字図で収録しています。添えたローマ字は読解用の参照読みであり、底本の綴りを標準形へ改めたものではありません。図版には周囲の訓点が含まれる場合があります。句読・訓読・現代語訳は本稿で独自に作成したものです。小字の編者注も本文と分けて収録しています。
参照本:壷井国三編『弘法大師全集』明治33年、PID819264。巻頭参照。
読解の参照資料:覚鑁『般若心経秘鍵略註』(大正蔵57・2203B、SAT)、済暹『般若心経秘鍵開門訣』(大正蔵57・2204、SAT)、Thomas Eijō Dreitlein, “An Annotated Translation of Kūkai’s Secret Key to the Heart Sūtra,” 『高野山大学密教文化研究所紀要』第24号、2011年、本文1–48頁(PDF内頁)。
編者注の参校本:善通寺宝物館蔵『般若心經秘鍵虵鱗記』、国文学研究資料館「国書データベース」資料番号100178091、10・11コマ。底本と異なる字は編纂注に示しています。
梵字図版:国立国会図書館デジタルコレクション配信の底本画像(PDM)を切り出して掲載。



