祈年祭
原文翻刻
祈年祭二月四日ノ祭ナリ神名帳ニ載ル三千一百三十二座ノ神ヘ悉ク幣ヲ奉ラルヽナリ神祇令云欲今歳災不作時令順度即於神祇官祭之故曰祈年凡人ノ命ハ衣食ニ依テ存ス神道ハ専ラ衣食ヲ先トス風雨水旱ノ災起リテ時令順度ナラサル時ハ衣食ニ害アリテ人ノ命保カタシ此祭ハ治國安民ノ大本ナリ二月種ヲ下スニ依テ五穀ノ成就ヲ祈ラルヽナリ其三千一百三十二座ノ中七百三十七座ハ官幣ノ社又ハ神祇官ニテ祭ル神祇官ハ拾芥抄ニ大炊ノ御門ノ北大宮ノ東ニアリト記セリ舊跡ハ則二條ノ城外ノ北東ニ當レリ伯副祐史生神部ト卜部使部直丁等ノ官人ヲ置テ天下神祇道ノ事ヲ執行スル官舎ナリ應仁兵火ノ後形體殘レル故ニ天正十四年十一月十二日後陽成帝御即位由ノ奉幣使マテハ此所ヨリ遣セラル又天正十五年豊臣秀吉公聚樂ノ城ヲ造ラルヽ時モ奉幣アリ其儀所司幣物ヲ設公卿辨官等ヲ率テ神祇官ニ參ル伯以下參入神部畿内諸社ノ祝部ヲ率テ參ル中臣中庭ニシテ祝詞ヲ宣公卿以下拍手忌部幣物ヲ分ツ諸社ノ祝部請取テ本社ニ奉ル其幣ハ大社一社ニ附ス大神宮度會宮各加フ馬一疋中臣一人ヲ差テ此ヲ奉ラル七道ノ諸國二千三百九十五座神ハ國ゴトニ其國司齋シ共ニ會テ祭ル其儀ハ神祇官ニ如シ大社二百八十六社三百十三座見ヘタリ伊勢ノ使ハ四日ニ神祇官ヲ發シテ八日ニ離宮院ニ著シ凡恒例ノ臨時ノ奉幣使ハ皆離宮院ニ宿シ九日ニ所太神宮ニ參テ奉幣ナリ又二宮所攝諸社ノ幣ハ太神宮司ヨリ下行ト式ニアリ伊勢ニテ幣使參向ノ次第大祓月次祭ト同法如常使祝詞讀テ宮司ハ祝詞ナシ神拜畢リ別宮ヲ遙拜シテ直會殿ニ就酒肴アリテ退出ス延喜式云二月祈年幣帛者朝使到日太神宮司引テ使ヲ先ニ度會宮次太神宮奉獻幣帛畢并如常儀高宮荒祭ノ宮使自遷奉公事根源ニ此祭天武天皇四年二月ニ始ラルト云リ然レトモ日本紀ニハ其事不見後土御門院ノ文正二年ニ式日延引シテ三月十七日ニ幣使發遣シ二宮ノ奉幣二十一日ニ勤ル由記録ニ見テ其後此祭勤仕ノ事不見明治二年今年二宮祢宜等再興シテ其形ハカリヲ執行ヘリ
独自句読
祈年祭。二月四日ノ祭ナリ。神名帳ニ載ル三千一百三十二座ノ神ヘ、悉ク幣ヲ奉ラルヽナリ。神祇令云、「欲今歳災不作、時令順度。即於神祇官祭之。故曰祈年。」凡、人ノ命ハ衣食ニ依テ存ス。神道ハ専ラ衣食ヲ先トス。風雨・水旱ノ災起リテ、時令順度ナラサル時ハ、衣食ニ害アリテ、人ノ命保カタシ。此祭ハ治國安民ノ大本ナリ。二月、種ヲ下スニ依テ、五穀ノ成就ヲ祈ラルヽナリ。其三千一百三十二座ノ中、七百三十七座ハ官幣ノ社。又ハ神祇官ニテ祭ル。神祇官ハ、『拾芥抄』ニ、大炊ノ御門ノ北、大宮ノ東ニアリト記セリ。舊跡ハ、則、二條ノ城外ノ北東ニ當レリ。伯・副・祐・史生・神部ト卜部・使部・直丁等ノ官人ヲ置テ、天下神祇道ノ事ヲ執行スル官舎ナリ。應仁兵火ノ後、形體殘レル故ニ、天正十四年十一月十二日、後陽成帝御即位由ノ奉幣使マテハ、此所ヨリ遣セラル。又、天正十五年、豊臣秀吉公、聚樂ノ城ヲ造ラルヽ時モ奉幣アリ。其儀、所司幣物ヲ設、公卿・辨官等ヲ率テ神祇官ニ參ル。伯以下參入。神部、畿内諸社ノ祝部ヲ率テ參ル。中臣、中庭ニシテ祝詞ヲ宣。公卿以下拍手。忌部、幣物ヲ分ツ。諸社ノ祝部、請取テ本社ニ奉ル。其幣ハ、大社一社ニ附ス。大神宮・度會宮、各加フ馬一疋。中臣一人ヲ差テ、此ヲ奉ラル。七道ノ諸國二千三百九十五座神ハ、國ゴトニ其國司齋シ、共ニ會テ祭ル。其儀ハ神祇官ニ如シ。大社二百八十六社、三百十三座見ヘタリ。伊勢ノ使ハ、四日ニ神祇官ヲ發シテ、八日ニ離宮院ニ著シ、凡、恒例ノ臨時ノ奉幣使ハ皆離宮院ニ宿シ、九日ニ所太神宮ニ參テ奉幣ナリ。又、二宮所攝諸社ノ幣ハ、太神宮司ヨリ下行ト式ニアリ。伊勢ニテ幣使參向ノ次第、大祓・月次祭ト同法。如常、使、祝詞讀テ、宮司ハ祝詞ナシ。神拜畢リ、別宮ヲ遙拜シテ、直會殿ニ就、酒肴アリテ退出ス。延喜式云、「二月祈年幣帛者、朝使到日、太神宮司引テ使ヲ、先ニ度會宮、次太神宮、奉獻幣帛畢。并如常儀。高宮・荒祭ノ宮、使自遷奉。」『公事根源』ニ、此祭、天武天皇四年二月ニ始ラルト云リ。然レトモ、『日本紀』ニハ其事不見。後土御門院ノ文正二年ニ、式日延引シテ、三月十七日ニ幣使發遣シ、二宮ノ奉幣、二十一日ニ勤ル由、記録ニ見テ、其後、此祭勤仕ノ事不見。明治二年、今年、二宮祢宜等、再興シテ、其形ハカリヲ執行ヘリ。
独自訓読
祈年祭。二月四日の祭なり。神名帳に載る三千一百三十二座の神へ、悉く幣を奉らるるなり。『神祇令』に云はく、「今歳、災作らず、時令、順度なるを欲し、即ち神祇官に於いて之を祭る。故に祈年と曰ふ」と。凡そ、人の命は衣食に依りて存す。神道は専ら衣食を先とす。風雨・水旱の災ひ起こりて、時令、順度ならざる時は、衣食に害ありて、人の命保ち難し。此の祭は治国安民の大本なり。二月、種を下すに依りて、五穀の成就を祈らるるなり。其の三千一百三十二座の中、七百三十七座は官幣の社、又は神祇官にて祭る。神祇官は、『拾芥抄』に、大炊御門の北、大宮の東にありと記せり。旧跡は、則ち、二条の城外の北東に当れり。伯・副・祐・史生・神部と卜部・使部・直丁等の官人を置きて、天下神祇道の事を執行する官舎なり。応仁の兵火の後、形体残れる故に、天正十四年十一月十二日、後陽成帝御即位由の奉幣使までは、此の所より遣はさる。又、天正十五年、豊臣秀吉公、聚楽の城を造らるる時も奉幣あり。其の儀、所司、幣物を設け、公卿・弁官等を率ゐて神祇官に参る。伯以下、参入す。神部、畿内諸社の祝部を率ゐて参る。中臣、中庭にして祝詞を宣る。公卿以下、拍手す。忌部、幣物を分つ。諸社の祝部、請け取りて本社に奉る。其の幣は、大社一社に附す。大神宮・度会宮には、各々馬一疋を加ふ。中臣一人を差して、此れを奉らる。七道の諸国二千三百九十五座の神は、国ごとに其の国司斎し、共に会して祭る。其の儀は神祇官の如し。大社二百八十六社、三百十三座見えたり。伊勢の使は、四日に神祇官を発して、八日に離宮院に着し、凡そ恒例の臨時の奉幣使は皆離宮院に宿し、九日に所の太神宮に参りて奉幣なり。又、二宮所摂諸社の幣は、太神宮司より下行すと式にあり。伊勢にて幣使参向の次第、大祓・月次祭と同法なり。常の如く、使、祝詞を読みて、宮司は祝詞なし。神拝畢り、別宮を遥拝して、直会殿に就き、酒肴ありて退出す。『延喜式』に云はく、「二月祈年の幣帛は、朝使到るの日、太神宮司、使を引きて、先に度会宮、次に太神宮に幣帛を奉献し畢んぬ。并びに常の儀の如し。高宮・荒祭の宮には、使、自ら遷し奉る」と。『公事根源』に、此の祭、天武天皇四年二月に始まると云へり。然れども、『日本紀』には其の事見えず。後土御門院の文正二年に、式日延引して、三月十七日に幣使を発遣し、二宮の奉幣は二十一日に勤むる由、記録に見えて、其の後、此の祭勤仕の事見えず。明治二年、今年、二宮祢宜等再興して、其の形ばかりを執行せり。
独自現代語訳
祈年祭は二月四日の祭である。神名帳に載る三千一百三十二座の神々すべてに幣を奉る。『神祇令』は、今年、災いが起こらず、季節の運行が順序どおりであることを願って神祇官で祭るため、祈年というのだと説明する。人の命は衣食によって保たれ、神道はとりわけ衣食を第一とする。風雨・洪水・旱魃などによって季節が正常に巡らなければ、衣食が損なわれ、人命を保つことも難しい。この祭は国を治め民を安んずる根本であり、二月に種を下ろす時期に、五穀の成就を祈るものである。 三千一百三十二座のうち七百三十七座は官幣の社に関わり、また神祇官で祭られた。『拾芥抄』によれば、神祇官は大炊御門の北、大宮大路の東にあり、その旧跡は二条城外の北東に当たるという。そこには伯・副・祐・史生・神部・卜部・使部・直丁などの官人が置かれ、天下の神祇道に関する事務を執行する官庁であった。応仁の兵火の後も形を残していたため、天正十四年十一月十二日の後陽成天皇即位に伴う奉幣使までは、ここから派遣された。翌天正十五年、豊臣秀吉が聚楽の城を造った時にも奉幣があった。 その儀式では、担当官が幣物を用意し、公卿・弁官らを伴って神祇官へ参る。伯以下が参入し、神部は畿内諸社の祝部を率いて参る。中臣が中庭で祝詞を宣り、公卿以下が拍手する。忌部が幣物を分け、各社の祝部が受け取って本社へ奉る。幣は大社一社ごとに配され、大神宮と度会宮にはそれぞれ馬一疋を加える。中臣一人を派遣して、これを奉るのである。七道諸国の二千三百九十五座の神々は、国ごとに国司が斎戒し、一同で祭る。その作法は神祇官での祭りに準じる。大社については二百八十六社、三百十三座が見える。 伊勢への使者は四日に神祇官を出発し、八日に離宮院へ着いた。恒例・臨時の奉幣使はみな離宮院に宿泊し、九日に大神宮へ参って奉幣した。また、二宮が管轄する諸社への幣は、太神宮司から下給されると式文にある。伊勢で奉幣使が参向する順序は、大祓・月次祭と同じ方式である。通常どおり使者が祝詞を読み、宮司は祝詞を奏さない。神拝を終えると別宮を遥拝し、直会殿に着座して酒肴を受け、退出する。 『延喜式』には、二月の祈年祭の幣帛について、朝廷の使者が到着した日に太神宮司が使者を案内し、まず度会宮、次いで太神宮に幣帛を奉献し、あわせて通常の儀礼を行い、高宮・荒祭宮についても使者が自ら奉ると記す。 『公事根源』は、この祭が天武天皇四年二月に始まったという。しかし『日本紀』にはその記事が見えない。後土御門院の文正二年には、定例の日が延期され、三月十七日に幣使を派遣し、二宮への奉幣を二十一日に勤めたことが記録に見えるが、それ以後、この祭が執行された記事は見えない。末尾には「明治二年、今年」とあり、二宮の祢宜らが再興し、その形式だけを執り行ったと記す。ただし、この年紀は本書の成立年および現存写本の書写年より後に当たり、この記述がどの段階で本文へ加わったかは確定できない。