神事俗解

神事俗解

『神事俗解』は、元禄十二年(一六九九)に度会益弘が記した神事解説書です。祈年祭・月次祭・神嘗祭をはじめ、臨時奉幣・臨時祭・大奉幣・大神宝について、古記録や式文を引きながら、その由来と次第を説いています。

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自家翻刻・訓読・現代語訳

祈年祭

SZ-0001・C102430120000-L–C102430120200-R 校了

原文翻刻

祈年祭二月四日ノ祭ナリ神名帳ニ載ル三千一百三十二座ノ神ヘ悉ク幣ヲ奉ラルヽナリ神祇令云欲今歳災不作時令順度即於神祇官祭之故曰祈年凡人ノ命ハ衣食ニ依テ存ス神道ハ専ラ衣食ヲ先トス風雨水旱ノ災起リテ時令順度ナラサル時ハ衣食ニ害アリテ人ノ命保カタシ此祭ハ治國安民ノ大本ナリ二月種ヲ下スニ依テ五穀ノ成就ヲ祈ラルヽナリ其三千一百三十二座ノ中七百三十七座ハ官幣ノ社又ハ神祇官ニテ祭ル神祇官ハ拾芥抄ニ大炊ノ御門ノ北大宮ノ東ニアリト記セリ舊跡ハ則二條ノ城外ノ北東ニ當レリ伯副祐史生神部ト卜部使部直丁等ノ官人ヲ置テ天下神祇道ノ事ヲ執行スル官舎ナリ應仁兵火ノ後形體殘レル故ニ天正十四年十一月十二日後陽成帝御即位由ノ奉幣使マテハ此所ヨリ遣セラル又天正十五年豊臣秀吉公聚樂ノ城ヲ造ラルヽ時モ奉幣アリ其儀所司幣物ヲ設公卿辨官等ヲ率テ神祇官ニ參ル伯以下參入神部畿内諸社ノ祝部ヲ率テ參ル中臣中庭ニシテ祝詞ヲ宣公卿以下拍手忌部幣物ヲ分ツ諸社ノ祝部請取テ本社ニ奉ル其幣ハ大社一社ニ附ス大神宮度會宮各加フ馬一疋中臣一人ヲ差テ此ヲ奉ラル七道ノ諸國二千三百九十五座神ハ國ゴトニ其國司齋シ共ニ會テ祭ル其儀ハ神祇官ニ如シ大社二百八十六社三百十三座見ヘタリ伊勢ノ使ハ四日ニ神祇官ヲ發シテ八日ニ離宮院ニ著シ凡恒例ノ臨時ノ奉幣使ハ皆離宮院ニ宿シ九日ニ所太神宮ニ參テ奉幣ナリ又二宮所攝諸社ノ幣ハ太神宮司ヨリ下行ト式ニアリ伊勢ニテ幣使參向ノ次第大祓月次祭ト同法如常使祝詞讀テ宮司ハ祝詞ナシ神拜畢リ別宮ヲ遙拜シテ直會殿ニ就酒肴アリテ退出ス延喜式云二月祈年幣帛者朝使到日太神宮司引テ使ヲ先ニ度會宮次太神宮奉獻幣帛畢并如常儀高宮荒祭ノ宮使自遷奉公事根源ニ此祭天武天皇四年二月ニ始ラルト云リ然レトモ日本紀ニハ其事不見後土御門院ノ文正二年ニ式日延引シテ三月十七日ニ幣使發遣シ二宮ノ奉幣二十一日ニ勤ル由記録ニ見テ其後此祭勤仕ノ事不見明治二年今年二宮祢宜等再興シテ其形ハカリヲ執行ヘリ

独自句読

祈年祭。二月四日ノ祭ナリ。神名帳ニ載ル三千一百三十二座ノ神ヘ、悉ク幣ヲ奉ラルヽナリ。神祇令云、「欲今歳災不作、時令順度。即於神祇官祭之。故曰祈年。」凡、人ノ命ハ衣食ニ依テ存ス。神道ハ専ラ衣食ヲ先トス。風雨・水旱ノ災起リテ、時令順度ナラサル時ハ、衣食ニ害アリテ、人ノ命保カタシ。此祭ハ治國安民ノ大本ナリ。二月、種ヲ下スニ依テ、五穀ノ成就ヲ祈ラルヽナリ。其三千一百三十二座ノ中、七百三十七座ハ官幣ノ社。又ハ神祇官ニテ祭ル。神祇官ハ、『拾芥抄』ニ、大炊ノ御門ノ北、大宮ノ東ニアリト記セリ。舊跡ハ、則、二條ノ城外ノ北東ニ當レリ。伯・副・祐・史生・神部ト卜部・使部・直丁等ノ官人ヲ置テ、天下神祇道ノ事ヲ執行スル官舎ナリ。應仁兵火ノ後、形體殘レル故ニ、天正十四年十一月十二日、後陽成帝御即位由ノ奉幣使マテハ、此所ヨリ遣セラル。又、天正十五年、豊臣秀吉公、聚樂ノ城ヲ造ラルヽ時モ奉幣アリ。其儀、所司幣物ヲ設、公卿・辨官等ヲ率テ神祇官ニ參ル。伯以下參入。神部、畿内諸社ノ祝部ヲ率テ參ル。中臣、中庭ニシテ祝詞ヲ宣。公卿以下拍手。忌部、幣物ヲ分ツ。諸社ノ祝部、請取テ本社ニ奉ル。其幣ハ、大社一社ニ附ス。大神宮・度會宮、各加フ馬一疋。中臣一人ヲ差テ、此ヲ奉ラル。七道ノ諸國二千三百九十五座神ハ、國ゴトニ其國司齋シ、共ニ會テ祭ル。其儀ハ神祇官ニ如シ。大社二百八十六社、三百十三座見ヘタリ。伊勢ノ使ハ、四日ニ神祇官ヲ發シテ、八日ニ離宮院ニ著シ、凡、恒例ノ臨時ノ奉幣使ハ皆離宮院ニ宿シ、九日ニ所太神宮ニ參テ奉幣ナリ。又、二宮所攝諸社ノ幣ハ、太神宮司ヨリ下行ト式ニアリ。伊勢ニテ幣使參向ノ次第、大祓・月次祭ト同法。如常、使、祝詞讀テ、宮司ハ祝詞ナシ。神拜畢リ、別宮ヲ遙拜シテ、直會殿ニ就、酒肴アリテ退出ス。延喜式云、「二月祈年幣帛者、朝使到日、太神宮司引テ使ヲ、先ニ度會宮、次太神宮、奉獻幣帛畢。并如常儀。高宮・荒祭ノ宮、使自遷奉。」『公事根源』ニ、此祭、天武天皇四年二月ニ始ラルト云リ。然レトモ、『日本紀』ニハ其事不見。後土御門院ノ文正二年ニ、式日延引シテ、三月十七日ニ幣使發遣シ、二宮ノ奉幣、二十一日ニ勤ル由、記録ニ見テ、其後、此祭勤仕ノ事不見。明治二年、今年、二宮祢宜等、再興シテ、其形ハカリヲ執行ヘリ。

独自訓読

祈年祭。二月四日の祭なり。神名帳に載る三千一百三十二座の神へ、悉く幣を奉らるるなり。『神祇令』に云はく、「今歳、災作らず、時令、順度なるを欲し、即ち神祇官に於いて之を祭る。故に祈年と曰ふ」と。凡そ、人の命は衣食に依りて存す。神道は専ら衣食を先とす。風雨・水旱の災ひ起こりて、時令、順度ならざる時は、衣食に害ありて、人の命保ち難し。此の祭は治国安民の大本なり。二月、種を下すに依りて、五穀の成就を祈らるるなり。其の三千一百三十二座の中、七百三十七座は官幣の社、又は神祇官にて祭る。神祇官は、『拾芥抄』に、大炊御門の北、大宮の東にありと記せり。旧跡は、則ち、二条の城外の北東に当れり。伯・副・祐・史生・神部と卜部・使部・直丁等の官人を置きて、天下神祇道の事を執行する官舎なり。応仁の兵火の後、形体残れる故に、天正十四年十一月十二日、後陽成帝御即位由の奉幣使までは、此の所より遣はさる。又、天正十五年、豊臣秀吉公、聚楽の城を造らるる時も奉幣あり。其の儀、所司、幣物を設け、公卿・弁官等を率ゐて神祇官に参る。伯以下、参入す。神部、畿内諸社の祝部を率ゐて参る。中臣、中庭にして祝詞を宣る。公卿以下、拍手す。忌部、幣物を分つ。諸社の祝部、請け取りて本社に奉る。其の幣は、大社一社に附す。大神宮・度会宮には、各々馬一疋を加ふ。中臣一人を差して、此れを奉らる。七道の諸国二千三百九十五座の神は、国ごとに其の国司斎し、共に会して祭る。其の儀は神祇官の如し。大社二百八十六社、三百十三座見えたり。伊勢の使は、四日に神祇官を発して、八日に離宮院に着し、凡そ恒例の臨時の奉幣使は皆離宮院に宿し、九日に所の太神宮に参りて奉幣なり。又、二宮所摂諸社の幣は、太神宮司より下行すと式にあり。伊勢にて幣使参向の次第、大祓・月次祭と同法なり。常の如く、使、祝詞を読みて、宮司は祝詞なし。神拝畢り、別宮を遥拝して、直会殿に就き、酒肴ありて退出す。『延喜式』に云はく、「二月祈年の幣帛は、朝使到るの日、太神宮司、使を引きて、先に度会宮、次に太神宮に幣帛を奉献し畢んぬ。并びに常の儀の如し。高宮・荒祭の宮には、使、自ら遷し奉る」と。『公事根源』に、此の祭、天武天皇四年二月に始まると云へり。然れども、『日本紀』には其の事見えず。後土御門院の文正二年に、式日延引して、三月十七日に幣使を発遣し、二宮の奉幣は二十一日に勤むる由、記録に見えて、其の後、此の祭勤仕の事見えず。明治二年、今年、二宮祢宜等再興して、其の形ばかりを執行せり。

独自現代語訳

祈年祭は二月四日の祭である。神名帳に載る三千一百三十二座の神々すべてに幣を奉る。『神祇令』は、今年、災いが起こらず、季節の運行が順序どおりであることを願って神祇官で祭るため、祈年というのだと説明する。人の命は衣食によって保たれ、神道はとりわけ衣食を第一とする。風雨・洪水・旱魃などによって季節が正常に巡らなければ、衣食が損なわれ、人命を保つことも難しい。この祭は国を治め民を安んずる根本であり、二月に種を下ろす時期に、五穀の成就を祈るものである。 三千一百三十二座のうち七百三十七座は官幣の社に関わり、また神祇官で祭られた。『拾芥抄』によれば、神祇官は大炊御門の北、大宮大路の東にあり、その旧跡は二条城外の北東に当たるという。そこには伯・副・祐・史生・神部・卜部・使部・直丁などの官人が置かれ、天下の神祇道に関する事務を執行する官庁であった。応仁の兵火の後も形を残していたため、天正十四年十一月十二日の後陽成天皇即位に伴う奉幣使までは、ここから派遣された。翌天正十五年、豊臣秀吉が聚楽の城を造った時にも奉幣があった。 その儀式では、担当官が幣物を用意し、公卿・弁官らを伴って神祇官へ参る。伯以下が参入し、神部は畿内諸社の祝部を率いて参る。中臣が中庭で祝詞を宣り、公卿以下が拍手する。忌部が幣物を分け、各社の祝部が受け取って本社へ奉る。幣は大社一社ごとに配され、大神宮と度会宮にはそれぞれ馬一疋を加える。中臣一人を派遣して、これを奉るのである。七道諸国の二千三百九十五座の神々は、国ごとに国司が斎戒し、一同で祭る。その作法は神祇官での祭りに準じる。大社については二百八十六社、三百十三座が見える。 伊勢への使者は四日に神祇官を出発し、八日に離宮院へ着いた。恒例・臨時の奉幣使はみな離宮院に宿泊し、九日に大神宮へ参って奉幣した。また、二宮が管轄する諸社への幣は、太神宮司から下給されると式文にある。伊勢で奉幣使が参向する順序は、大祓・月次祭と同じ方式である。通常どおり使者が祝詞を読み、宮司は祝詞を奏さない。神拝を終えると別宮を遥拝し、直会殿に着座して酒肴を受け、退出する。 『延喜式』には、二月の祈年祭の幣帛について、朝廷の使者が到着した日に太神宮司が使者を案内し、まず度会宮、次いで太神宮に幣帛を奉献し、あわせて通常の儀礼を行い、高宮・荒祭宮についても使者が自ら奉ると記す。 『公事根源』は、この祭が天武天皇四年二月に始まったという。しかし『日本紀』にはその記事が見えない。後土御門院の文正二年には、定例の日が延期され、三月十七日に幣使を派遣し、二宮への奉幣を二十一日に勤めたことが記録に見えるが、それ以後、この祭が執行された記事は見えない。末尾には「明治二年、今年」とあり、二宮の祢宜らが再興し、その形式だけを執り行ったと記す。ただし、この年紀は本書の成立年および現存写本の書写年より後に当たり、この記述がどの段階で本文へ加わったかは確定できない。

祈年穀奉幣

SZ-0002・C102430120200-R–C102430120200-L 校了

原文翻刻

祈年穀奉幣公事根源ニ二月七月二度アリ吉日シテ奉ラル廿二社ナリ各宣命アリ天武天皇四年正月諸社ニ幣ヲ奉ラル天慶六年五月年穀ヲ祈ランカタメ十一社ニ奉幣有トアリ云々奉幣國史ニ時々見タリ或ハ八省或ハ神祇官ヨリ發セラル伊勢ノ使ハ四姓氏人參ルナリ内宮年中行事ニ春秋二季祈年穀奉幣使參宮之次第大幣如九月例幣之時但今度者無馬鞍無酒肴無荷前御調絹無正殿之昇殿并御遊神主東寶殿御鑰給參昇次第如六月御祭之勤但宮司送文錦綾八端奉納之後退出トアリ中原康富記ニ寶徳元年八月廿三日祈年穀奉幣トアリ此以後此祭勤仕ノ事所見ナシ

独自句読

祈年穀奉幣。公事根源ニ、二月七月二度アリ。吉日シテ奉ラル。廿二社ナリ。各宣命アリ。天武天皇四年正月、諸社ニ幣ヲ奉ラル。天慶六年五月、年穀ヲ祈ランカタメ、十一社ニ奉幣有トアリ、云々。奉幣、國史ニ時々見タリ。或ハ八省、或ハ神祇官ヨリ發セラル。伊勢ノ使ハ、四姓氏人參ルナリ。内宮年中行事ニ、「春秋二季祈年穀奉幣使參宮之次第。大幣如九月例幣之時。但今度者無馬鞍、無酒肴、無荷前御調絹、無正殿之昇殿并御遊。神主東寶殿御鑰給參昇。次第如六月御祭之勤。但宮司送文、錦綾八端奉納之後退出」トアリ。中原康富記ニ、「寶徳元年八月廿三日、祈年穀奉幣」トアリ。此以後、此祭勤仕ノ事、所見ナシ。

独自訓読

祈年穀奉幣。『公事根源』に、二月・七月の二度あり。吉日して奉らる。二十二社なり。各々宣命あり。天武天皇四年正月、諸社に幣を奉らる。天慶六年五月、年穀を祈らんがため、十一社に奉幣ありとあり、云々。奉幣は、国史に時々見えたり。あるいは八省、あるいは神祇官より発せらる。伊勢の使は、四姓の氏人参るなり。『内宮年中行事』に、「春秋二季の祈年穀奉幣使、参宮の次第。大幣は九月例幣の時の如し。ただし今度は馬鞍無く、酒肴無く、荷前の御調絹無く、正殿の昇殿ならびに御遊無し。神主、東宝殿の御鑰を給ひ、参昇す。次第は六月御祭の勤めの如し。ただし宮司送文、錦綾八端奉納の後、退出す」とあり。『中原康富記』に、「宝徳元年八月二十三日、祈年穀奉幣」とあり。これ以後、この祭勤仕の事、所見無し。

独自現代語訳

祈年穀の奉幣。『公事根源』によれば、この奉幣は二月と七月の二度あり、吉日を選んで二十二社へ幣帛が奉られ、各社に宣命があった。天武天皇四年正月に諸社へ幣帛が奉られたこと、また天慶六年五月に年穀を祈るため十一社への奉幣があったことが記されている。奉幣の記事は国史に時おり見え、八省から、または神祇官から使が発遣された。伊勢への使には四姓の氏人が参向した。『内宮年中行事』には、春秋二季の祈年穀奉幣使が参宮する次第について、大幣の作法は九月の例幣の時と同じであるが、この時は馬鞍・酒肴・荷前の御調絹がなく、正殿への昇殿と御遊もないこと、神主は東宝殿の御鍵を受けて参り昇ること、次第は六月の御祭の勤めと同じであること、ただし宮司の送文と錦・綾八端を奉納した後に退出することが記されている。『中原康富記』には「宝徳元年八月二十三日、祈年穀奉幣」とある。これより後、この祭を勤仕した記事を著者は見いだしていない。

月次祭

SZ-0003・C102430120200-L–C102430120500-R 校了

原文翻刻

月次祭六月十一日十二月十一日両度神祇官ニテ行ハル是ハ神名帳ニ載ル神社ノ中以上ノ幣三百四座ノ神ハカリヘノ奉幣ナリ以下ノ幣四百三十三座ハ不預二千三百九十五座ノ奉幣國司ノ勤メモナシ當祭ノ幣物ノ色目并其儀ハ祈年祭ニ同シ伊勢ノ使ハ中臣一人發遣セラル延喜式云總シテ二宮ノ幣使ハ中臣ヲ用フル事ハ天平月次祭ハ六月十二月十五日ナリ天武天皇白鳳四年乙未始制伊勢以後差中臣朝臣不得用他姓人トアリ此祭宣命十二日神馬ヲ奉ル十五日勅使離宮院ニ到著シ齋内親王御著アリテ大祓神事アリ十五日ヨリ離宮院ニテ齋内親王十六日ニ外宮奉幣十七日ニ内宮奉幣アリ両日トモニ齋内親王參リ給フ齋王候殿ニ著御アリテ御鬘木綿ヲ著テ次ニ御玉串ヲ取給テ宮司取傳テ奉ル命婦若ハ女嬬内ノ玉垣門内ニ入御ナリテ御拝アリ両殿再拝サル大物忌子瑞垣御門ノ前ニ候ス齋内親王御玉串ヲ大物忌ノ子ニ給フ次ニ祿物單衣一領ヲ給フ御玉串ハ瑞垣ノ御門ニ納ム其後齋王候殿ニ還御ナルナリ神宮ノ勤ハ祈年祭ヨリモ嚴重ナリ此祭ニハ官幣ノ外ニ荷前御調絲ヲ宮司二宮ニ奉納ス此御納ノモノヲ調ヘ幣使參向ノ次第大祓祈年祭ニ同シ玉串ノ行事アリ使ト宮司ノ祝詞アリ宮司祢宜内院ニ入東寶殿ヲ開キ幣物ヲ奉納シテ退出シ石壺ニテ神拜畢リ別宮遥拜シ直會殿ニテ饗酒肴アリテ使宮司又中臣等ニ賜ヒ次ニ參ル寮頭同ク還リ參リ第四ノ御門ノ内ニ著座ス歌人并歌笛ヲ發シ琴ヲ撥ク先宮司次祢宜次内人使次祭官次第ニ倭舞ヲ仕奉ル一人齋王御參ノ時ハ祢宜内人ハ朱ノ衵女裝束ヲ用テ御門ノ内東方ニ侍テ舞畢ル人コトニ三角柏ニ酒ヲ盛テ飲シム是ヲ酒立ト云ナリ次齋宮ノ女嬬四人唐衣裳ヲ著シ扇ヲサシテ御前ニ向テ五節舞ヲ奏ス齋王不參次鳥名子舞琴笛ヲ調ヘ十二詠ノ歌ヲ設ケ鳥名子舞トハ童男童女十八人青摺ノ衣裳ヲ著シテ舞ナ宇多天皇御文ニ云年中三度ノ祭祀必ニ養此曲ヲ謂ル彼役人ハ歌長笛生琴生鳥名子等也若シ自不參ノ時ハ雖為式日今延引祭禮之例也云城田郷ノ邊ニ此役人アリテ三度コトニ怠リ無參リ竹笛ヲ吹テ童子ヲ其形ハカリ舞シムルナリ今モ絶タリ凡此等ノ御神樂ヲ御遊ト云十八日曉離宮院ニテ豐明神事アリ此饗ニハ是ニモ齋王候鳥名子舞並舞會等アリ月次祭ノ公事根源ニ弘仁年中ニ此事始ルトアリ然レトモ神祇令ニ載スレハ弘仁以前ヨリ始ル事明カナリ此祭并九月神嘗祭神宮ノ勤上古ハ共ニ早朝ナリシニ中古ヨリ黄昏ニ及テ執行ヘリ此祭ノ勅使後花園院ノ寶徳三年六月大中臣有忠參勤シテ其後勅使參勤ノ事記録ニ不見其後三百四十年餘ハ今ハ二宮トモニ神官等其形ハカリヲ執行ナリ

独自句読

月次祭。 六月十一日、十二月十一日、両度、神祇官ニテ行ハル。是ハ神名帳ニ載ル神社ノ中、以上ノ幣三百四座ノ神ハカリヘノ奉幣ナリ。以下ノ幣四百三十三座ハ不預。二千三百九十五座ノ奉幣、國司ノ勤メモナシ。當祭ノ幣物ノ色目并其儀ハ、祈年祭ニ同シ。伊勢ノ使ハ中臣一人、發遣セラル。 延喜式云、總シテ二宮ノ幣使ハ中臣ヲ用フル事ハ、天平月次祭ハ六月十二月十五日ナリ。天武天皇白鳳四年乙未始制、「伊勢以後差中臣朝臣不得用他姓人」トアリ。 此祭宣命。十二日、神馬ヲ奉ル。十五日、勅使、離宮院ニ到著シ、齋内親王御著アリテ、大祓神事アリ。十五日ヨリ離宮院ニテ齋内親王、十六日ニ外宮奉幣、十七日ニ内宮奉幣アリ。両日トモニ齋内親王參リ給フ。 齋王候殿ニ著御アリテ、御鬘木綿ヲ著テ、次ニ御玉串ヲ取給テ、宮司取傳テ奉ル。命婦若ハ女嬬、内ノ玉垣門内ニ入御ナリテ、御拝アリ。両殿、再拝サル。大物忌子、瑞垣御門ノ前ニ候ス。齋内親王御玉串ヲ大物忌ノ子ニ給フ。次ニ祿物、單衣一領ヲ給フ。御玉串ハ瑞垣ノ御門ニ納ム。其後、齋王候殿ニ還御ナルナリ。 神宮ノ勤ハ祈年祭ヨリモ嚴重ナリ。此祭ニハ官幣ノ外ニ荷前御調絲ヲ宮司、二宮ニ奉納ス。此御納ノモノヲ調ヘ、幣使參向ノ次第、大祓、祈年祭ニ同シ。玉串ノ行事アリ。使ト宮司ノ祝詞アリ。宮司、祢宜、内院ニ入、東寶殿ヲ開キ、幣物ヲ奉納シテ退出シ、石壺ニテ神拜畢リ、別宮遥拜シ、直會殿ニテ饗、酒肴アリテ、使、宮司、又中臣等ニ賜ヒ、次ニ參ル。寮頭、同ク還リ參リ、第四ノ御門ノ内ニ著座ス。 歌人并歌笛ヲ發シ、琴ヲ撥ク。先宮司、次祢宜、次内人、使、次祭官、次第ニ倭舞ヲ仕奉ル一人。齋王御參ノ時ハ、祢宜、内人ハ朱ノ衵、女裝束ヲ用テ、御門ノ内、東方ニ侍テ、舞畢ル。人コトニ三角柏ニ酒ヲ盛テ飲シム。是ヲ酒立ト云ナリ。 次、齋宮ノ女嬬四人、唐衣裳ヲ著シ、扇ヲサシテ、御前ニ向テ五節舞ヲ奏ス。齋王不參。次、鳥名子舞。琴笛ヲ調ヘ、十二詠ノ歌ヲ設ケ、鳥名子舞トハ、童男童女十八人、青摺ノ衣裳ヲ著シテ舞ナ。 宇多天皇御文ニ云、「年中三度ノ祭祀、必ニ養此曲ヲ謂ル。彼役人ハ歌長、笛生、琴生、鳥名子等也。若シ自不參ノ時ハ、雖為式日、今延引祭禮之例也」云。 城田郷ノ邊ニ此役人アリテ、三度コトニ怠リ無、參リ、竹笛ヲ吹テ、童子ヲ其形ハカリ舞シムルナリ。今モ絶タリ。凡此等ノ御神樂ヲ御遊ト云。 十八日曉、離宮院ニテ豐明神事アリ。此饗ニハ、是ニモ齋王候。鳥名子舞並舞會等アリ。 月次祭ノ公事根源ニ、「弘仁年中ニ此事始」ルトアリ。然レトモ神祇令ニ載スレハ、弘仁以前ヨリ始ル事、明カナリ。此祭并九月神嘗祭、神宮ノ勤、上古ハ共ニ早朝ナリシニ、中古ヨリ黄昏ニ及テ執行ヘリ。 此祭ノ勅使、後花園院ノ寶徳三年六月、大中臣有忠參勤シテ、其後、勅使參勤ノ事、記録ニ不見。其後三百四十年餘ハ、今ハ二宮トモニ神官等、其形ハカリヲ執行ナリ。

独自訓読

月次祭。 六月十一日、十二月十一日の両度、神祇官にて行はる。これは神名帳に載る神社のうち、以上の幣、三百四座の神ばかりへの奉幣なり。以下の幣、四百三十三座は預からず。二千三百九十五座への奉幣は、国司の勤めもなし。当祭の幣物の色目、ならびにその儀は、祈年祭に同じ。伊勢への使は、中臣一人を発遣せらる。 『延喜式』に云ふ。総じて二宮の幣使に中臣を用ふることは、天平の月次祭は六月・十二月の十五日なり。天武天皇の白鳳四年乙未に始めて制し、「伊勢には、以後、中臣朝臣を差し、他姓の人を用ふることを得ず」とあり。 この祭の宣命。十二日、神馬を奉る。十五日、勅使は離宮院に到著し、斎内親王の御著ありて、大祓の神事あり。十五日より離宮院にて、十六日に外宮奉幣、十七日に内宮奉幣あり。両日ともに斎内親王参り給ふ。 斎王、候殿に著御ありて、御鬘木綿を著けて、次に御玉串を取り給ひて、宮司取り伝へて奉る。命婦もしくは女嬬、内の玉垣門内に入御になりて、御拝あり。両殿に再拝せらる。大物忌子は瑞垣御門の前に候す。斎内親王、御玉串を大物忌の子に給ふ。次に禄物、単衣一領を給ふ。御玉串は瑞垣の御門に納む。その後、斎王は候殿に還御になるなり。 神宮の勤めは祈年祭よりも厳重なり。この祭には、官幣のほかに荷前御調糸を、宮司、二宮に奉納す。この御納の物を調へ、幣使参向の次第は、大祓・祈年祭に同じ。玉串の行事あり。使と宮司の祝詞あり。宮司・祢宜、内院に入り、東宝殿を開き、幣物を奉納して退出し、石壺にて神拝を終へ、別宮を遥拝し、直会殿にて饗あり。酒肴ありて、使・宮司、また中臣らに賜ひ、次に参る。寮頭も同じく還り参り、第四の御門の内に著座す。 歌人、ならびに歌笛を発し、琴を弾く。先に宮司、次に祢宜、次に内人・使、次に祭官、次第に倭舞を仕へ奉る一人。斎王御参の時は、祢宜・内人は朱の衵、女装束を用ひて、御門の内の東方に侍して舞ひ終はる。人ごとに三角柏に酒を盛りて飲ましむ。これを酒立と云ふなり。 次に斎宮の女嬬四人、唐衣裳を著し、扇を差して、御前に向かひて五節舞を奏す。斎王不参。次に鳥名子舞。琴・笛を調へ、十二詠の歌を設け、鳥名子舞とは、童男・童女十八人、青摺の衣裳を著して舞ふなり。 底本の最有力読みに従へば、宇多天皇の御文に云ふ。「年中三度の祭祀には、必ずこの曲を養ふと謂ふ。かの役人は、歌長・笛生・琴生・鳥名子らなり。もし自ら参らざる時は、式日たりといへども、今は祭礼を延引するの例なり」と云ふ。 城田郷の辺にこの役人ありて、三度ごとに怠りなく参り、竹笛を吹きて、童子にその形ばかりを舞はしむるなり。今は絶えたり。およそこれらの御神楽を御遊と云ふ。 十八日の暁、離宮院にて豊明神事あり。この饗には、ここにも斎王候す。鳥名子舞、ならびに舞会らあり。 月次祭について、『公事根源』に「弘仁年中にこの事始まる」とあり。しかれども神祇令に載すれば、弘仁以前より始まること明らかなり。この祭、ならびに九月神嘗祭の神宮の勤めは、上古にはともに早朝なりしに、中古より黄昏に及びて執行せり。 この祭の勅使は、後花園院の宝徳三年六月に大中臣有忠が参勤して、その後、勅使参勤のことは記録に見えず。底本末尾の低確度読みに従へば、その後三百四十年余りは、今は二宮ともに神官らが、その形ばかりを執行するなり。

独自現代語訳

月次祭は、六月十一日と十二月十一日の年二回、神祇官で行われる。この祭で幣帛を受けるのは、神名帳に載る神社のうち上位に区分された三百四座の神々に限られる。下位の四百三十三座は対象とならず、残る二千三百九十五座への奉幣を国司が勤めることもないという。幣物の種類や儀式は祈年祭と同じで、伊勢には中臣氏の使者一人が派遣される。 本文は『延喜式』を引き、伊勢の内宮・外宮への幣使に中臣氏を用いる由来を述べる。天平年間の月次祭は六月と十二月の十五日に行われ、天武天皇白鳳四年乙未に制度が定められたとし、以後、伊勢への使者には中臣朝臣を充て、他姓の者を用いてはならないと記す。 この祭では宣命があり、十二日に神馬を奉る。十五日に勅使が離宮院へ到着すると、斎内親王も着き、大祓の神事が行われる。十五日から離宮院で祭儀が続き、十六日に外宮、十七日に内宮で奉幣があり、両日とも斎内親王が参向する。 斎王は候殿に着座し、鬘に付ける木綿を着け、玉串を取る。底本の有力な語順によれば、その玉串は宮司が受け伝えて奉ると読める。命婦または女嬬が内側の玉垣門内に入り、斎王は両殿で再拝する。大物忌子は瑞垣御門の前に控える。続く箇所も底本の有力な語順によれば、斎内親王が玉串を大物忌の子に渡し、続いて禄として単衣一領を与える。玉串は瑞垣の御門に納められ、その後、斎王は候殿に還御する。 神宮での奉仕は祈年祭よりも厳重である。この祭では官幣のほかに荷前御調糸が二宮へ奉納される。その奉納物を調え、幣使が参向する手順は、大祓や祈年祭と同じである。玉串の行事があり、使者と宮司が祝詞を奏する。宮司と禰宜は内院に入り、東宝殿を開いて幣物を奉納した後、退出する。石壺で神拝を終え、別宮を遥拝し、直会殿で饗宴を行う。酒肴が供され、使者・宮司・中臣らに与えられる。寮頭も戻って参り、第四の御門の内に着座する。 続いて歌と笛が始まり、琴が奏される。宮司、禰宜、内人、使者、祭官の順に倭舞を奉仕する。斎王が参向するとき、禰宜と内人は朱色の衵を含む女装束を用い、御門内の東方に控えて舞う。舞が終わると、一人ずつ三角柏に盛った酒を飲ませる。これを「酒立」という。 次に斎宮の女嬬四人が唐衣裳を着け、扇を差して御前に向かい、五節舞を奏する。斎王が参らない場合にも、次に鳥名子舞があると読める。琴と笛を調え、十二詠の歌を設ける。鳥名子舞とは、童男・童女十八人が青摺の衣裳を着て舞うものである。 底本の最有力読みによれば、ここには「宇多天皇御文」とあり、その内容として、年三度の祭祀では必ずこの曲を備えること、その役を歌長・笛生・琴生・鳥名子らが務めることが記される。また、当人が参らない場合には、式日であっても祭礼を延期する例があるという。 城田郷の辺りにはこれらの役人がおり、年三度の祭ごとに怠りなく参った。竹笛を吹き、童子に形ばかりの舞をさせたが、著者の時代にはすでに絶えていたという。本文は、これらの御神楽を「御遊」と呼ぶ。 十八日の明け方には、離宮院で豊明神事が行われる。この饗宴にも斎王が列席し、鳥名子舞や舞会などがある。 『公事根源』には月次祭が弘仁年間に始まったとある。しかし本文は、神祇令にすでに記載があるため、弘仁以前から始まっていたことは明らかだと論じる。月次祭と九月の神嘗祭における神宮の勤めは、上古にはいずれも早朝に行われたが、中古以後は黄昏にまで及んで執行されたという。 この祭の勅使については、後花園院の宝徳三年六月に大中臣有忠が参勤した後、勅使参勤の記事が記録に見えないとする。本文末尾は、低確度の最有力読みによれば、「その後三百四十年余り」を経た著者の時代には、内宮・外宮ともに神官らが儀式の形だけを執行している、と述べる。

神嘗祭

SZ-0004・C102430120500-R–C102430120800-L 校了

原文翻刻

神嘗祭九月十一日天皇八省院ニ行幸ナリ小安殿ニ御座シテ勅使ヲ發セラル其儀中臣ハ一ノ版ニ就キ忌部ハ二版ニ就キ卜部ハ其後ニ從フ天皇先ニ忌部ヲ召ス忌部參リ外宮ノ御幣ヲ取テ後取ニ授ク其後内宮ノ御幣ヲ内藏寮ニ奉ル調進ノ時ハ五色絹各一疋木綿ヲ取テ次ニ中臣ヲ召ス中臣進テ參ル勅云吉日申又奉禮ト中臣稱唯シテ出ル上卿ヲ召テ宣命ヲ給フ延喜式云神嘗祭幣帛使取王五位已上卜食者充之依テ此條ヲ使ヒハ王中臣忌部卜部四姓ヲ遣サレ王氏ハ天子ノ孫曾孫玄孫ノ中親王宣下モナク氏姓ヲ賜フザルヲ何王ト云伊勢ハ天子ノ祖廟ナル故ニ王氏ヲ遣サルヽ春日社ノ勅使ニ藤原氏梅宮ノ社ノ勅使ニ橘氏ヲ用給フモ皆其神ノ苗裔ヲ用クルナリ王孫ト云トモ玄孫ノ子ハ不用四代過テ親盡ル故ナリ貞觀儀式云外記錄ニ王氏歷名封之令神祇官ノ上云諸王自親王五世雖得王名不在皇親之限ナリ今ノ白河殿ハ花山院ノ御子彈正尹清仁親王ノ後胤ナリ彼家四五位ノ時源ノ姓ヲ賜ル神祇伯ニ任スル時王氏ニ復シ又伯ヲ辭シテハ源ノ姓ヲ賜ルナリ徃昔神祇伯タル人使ノ王タル例モ時々見タリ中臣ハ天兒屋命ノ故事ニヨリテ祝詞ヲ主リ忌部ハ太玉命ノ故事ニヨリテ幣帛ヲ主リ卜部ハ忌部ノ後ニ候ヒ後取リ殺シ又行路解除ヲ候セシム凡勅使參向ニ祓古來宣命ニ王中臣忌部ノ三使ヲ載スレト卜部ハ載ラレスト中右記云伊勢宣命之中難載スヘレハ差中臣忌部卜部明日部者不載也是例事一人ニテ卜部參勤ナキ故ニ延喜式云祈年月次祭ノ使參入者大神宮司卜部祇候多氣河解除料アリ延喜式云卜部一人置大神宮司令卜年中雜事云其衣粮者以神封物給之卜部參勤故ニ式文ニ除ケリ此祭ニハ神馬モ二宮ヘ四足奉ラル中二疋ニハ鞍ヲ置ル十五日離宮院大祓神事アリテ十六日外宮ノ御祭十七日内宮ノ御祭ナリ官幣并ニ宮司祢宜ヨリ奉ル織ノ御衣ハ正殿奉納寶殿ニ納ム今猶又宮司荷前御調ノ絹ヲ進ルヲ東寶殿ニ納ルコト六月御調ノ糸ノ如シ神郡ノ百姓家九月十六日ノ御遊倭舞酒立アリ齋内親王モ參給フ五節ノ舞鳥名子舞アリ皆月次祭ニ同シ十八日離宮院豊明神事等是亦月次祭ニ同シ按公事根源朔日ヨリ十一日ニ至ルマテ僧尼重服服ノ人參内セズ是ハ大神事ナル故ナリ例幣ト云ハ大神宮ヘ幣ヲ奉ラセ給フ毎年ノ事ナルニヨツテ例幣ト云朱雀院ノ御時ヨリ始メラル養老五年九月十一日ニ始テ官幣ヲ奉ラルト記セ續日本紀養老五年九月乙卯天皇御大安殿遣使供幣帛於伊勢太神宮以皇太子女井上王爲齋内親王乙卯ハ十一日ナレハ公事根源ニ載セルハ此事ナルヘシ神宮餘ノ勅使ハ養老ヨリ前ニ是アリ此祭ノ勅使應仁ノ比絶テ祠官等ハカリ執行セシニ正保ノ聖朝ニ御再興アリテヨリ今ニ至ルマテ王中臣忌部ノ勅使參勤シテ官幣ヲ奉ラルヽナリ然ルヘキ諸王ナキニヤ王氏代ヲ遣サル忌部ハ其氏族分明ナラサル故ニ是モ亦忌部代ヲ用ラレ二氏トモニ宣命ニハ假名ヲ載ラルヽナリ卜部參勤ナキ故ニ司家ヨリ卜部代宮川ニ往テ祓ヲ勤ム卜部ヲ幣使ニ除ケレタル子細ハ吉田神主卜部兼倶ト云者亂世ニ横行シ奸僞ヲ恣ニシテ云ハ神武帝初テ齋場ヲ大和國膽駒山ニ建給ヒ嵯峨帝如意峯ニ移シ建テ日本最上トノ聖勅ヲ成給トアトカタモナキ僞言ヲ云出シ大樹義尚公ノ母公藤原ノ富子ニヨリテ齋場所再興トテ文明十六年ニ神樂岡ニ八角ノ堂ヲ建テ大元宮齋場所ト號シ今ニアリ延德元年三月義尚公薨ス享年二十五歲又翌年大前ノ大樹義政公薨セラル神明納受ナキ故歟齋場ト云ハ大嘗會ヲ行ハルヽ時北野ニ造立アリテ祭禮畢テ後ハ破却セラル平日齋場所ナル事古今ノ記ニナシ延喜大嘗會式ニ凡北野齋場雜舍事畢テ壞却トアリ又延德二年ニ大神宮ノ御體吉田齋場所ヘ飛御ト兼倶密奏シ二宮祠官等ヲ騷動セシム此時ヨリ吉田ノ卜部ヲ神敵ト稱シテ神宮ニテハ嬰兒マテモ是ヲ忌メリ天正十五年神祇官廢亡ノ後吉田ニ八神殿アルヲ以テ神祇官ノ事ニ申ナシテ慶長十四年九月十五日ノ奉幣ヨリ始テ吉田山ヨリ發遣セラル例幣御再興ノ時モ其儀ヲ改ラレス今ニ至リテ吉田山ヨリ發セラル

独自句読

神嘗祭 九月十一日天皇八省院ニ行幸ナリ小安殿ニ御座シテ勅使ヲ發セラル。其儀中臣ハ一ノ版ニ就キ忌部ハ二版ニ就キ卜部ハ其後ニ從フ。天皇先ニ忌部ヲ召ス。忌部參リ外宮ノ御幣ヲ取テ後取ニ授ク。其後内宮ノ御幣ヲ内藏寮ニ奉ル。調進ノ時ハ五色絹各一疋木綿ヲ取テ次ニ中臣ヲ召ス。中臣進テ參ル。勅云、吉日申又奉禮ト。中臣稱唯シテ出ル。上卿ヲ召テ宣命ヲ給フ。延喜式云、神嘗祭幣帛使取王五位已上卜食者充之。依テ此條ヲ使ヒハ王中臣忌部卜部四姓ヲ遣サレ、王氏ハ天子ノ孫曾孫玄孫ノ中親王宣下モナク氏姓ヲ賜フザルヲ何王ト云。伊勢ハ天子ノ祖廟ナル故ニ王氏ヲ遣サルヽ。春日社ノ勅使ニ藤原氏梅宮ノ社ノ勅使ニ橘氏ヲ用給フモ皆其神ノ苗裔ヲ用クルナリ。王孫ト云トモ玄孫ノ子ハ不用四代過テ親盡ル故ナリ。貞觀儀式云、外記錄ニ王氏歷名封之令神祇官ノ上云、諸王自親王五世雖得王名不在皇親之限ナリ。今ノ白河殿ハ花山院ノ御子彈正尹清仁親王ノ後胤ナリ。彼家四五位ノ時源ノ姓ヲ賜ル。神祇伯ニ任スル時王氏ニ復シ又伯ヲ辭シテハ源ノ姓ヲ賜ルナリ。徃昔神祇伯タル人使ノ王タル例モ時々見タリ。中臣ハ天兒屋命ノ故事ニヨリテ祝詞ヲ主リ、忌部ハ太玉命ノ故事ニヨリテ幣帛ヲ主リ、卜部ハ忌部ノ後ニ候ヒ後取リ殺シ又行路解除ヲ候セシム。凡勅使參向ニ祓。古來宣命ニ王中臣忌部ノ三使ヲ載スレト卜部ハ載ラレスト。中右記云、伊勢宣命之中難載スヘレハ差中臣忌部卜部明日部者不載也。是例事一人ニテ卜部參勤ナキ故ニ、延喜式云、祈年月次祭ノ使參入者大神宮司卜部祇候多氣河解除料アリ。延喜式云、卜部一人置大神宮司令卜年中雜事云、其衣粮者以神封物給之。卜部參勤故ニ式文ニ除ケリ。此祭ニハ神馬モ二宮ヘ四足奉ラル。中二疋ニハ鞍ヲ置ル。十五日離宮院大祓神事アリテ十六日外宮ノ御祭十七日内宮ノ御祭ナリ。官幣并ニ宮司祢宜ヨリ奉ル織ノ御衣ハ正殿奉納寶殿ニ納ム。今猶又宮司荷前御調ノ絹ヲ進ルヲ東寶殿ニ納ルコト六月御調ノ糸ノ如シ。神郡ノ百姓家九月十六日ノ御遊倭舞酒立アリ。齋内親王モ參給フ。五節ノ舞鳥名子舞アリ。皆月次祭ニ同シ。十八日離宮院豊明神事等是亦月次祭ニ同シ。按公事根源、朔日ヨリ十一日ニ至ルマテ僧尼重服服ノ人參内セズ。是ハ大神事ナル故ナリ。例幣ト云ハ大神宮ヘ幣ヲ奉ラセ給フ毎年ノ事ナルニヨツテ例幣ト云。朱雀院ノ御時ヨリ始メラル。養老五年九月十一日ニ始テ官幣ヲ奉ラルト記セ。續日本紀、養老五年九月乙卯天皇御大安殿遣使供幣帛於伊勢太神宮以皇太子女井上王爲齋内親王。乙卯ハ十一日ナレハ公事根源ニ載セルハ此事ナルヘシ。神宮餘ノ勅使ハ養老ヨリ前ニ是アリ。此祭ノ勅使應仁ノ比絶テ祠官等ハカリ執行セシニ、正保ノ聖朝ニ御再興アリテヨリ今ニ至ルマテ王中臣忌部ノ勅使參勤シテ官幣ヲ奉ラルヽナリ。然ルヘキ諸王ナキニヤ王氏代ヲ遣サル。忌部ハ其氏族分明ナラサル故ニ是モ亦忌部代ヲ用ラレ、二氏トモニ宣命ニハ假名ヲ載ラルヽナリ。卜部參勤ナキ故ニ司家ヨリ卜部代宮川ニ往テ祓ヲ勤ム。卜部ヲ幣使ニ除ケレタル子細ハ、吉田神主卜部兼倶ト云者亂世ニ横行シ奸僞ヲ恣ニシテ云ハ、神武帝初テ齋場ヲ大和國膽駒山ニ建給ヒ、嵯峨帝如意峯ニ移シ建テ日本最上トノ聖勅ヲ成給ト、アトカタモナキ僞言ヲ云出シ、大樹義尚公ノ母公藤原ノ富子ニヨリテ齋場所再興トテ、文明十六年ニ神樂岡ニ八角ノ堂ヲ建テ大元宮齋場所ト號シ今ニアリ。延德元年三月義尚公薨ス。享年二十五歲。又翌年大前ノ大樹義政公薨セラル。神明納受ナキ故歟。齋場ト云ハ大嘗會ヲ行ハルヽ時北野ニ造立アリテ祭禮畢テ後ハ破却セラル。平日齋場所ナル事古今ノ記ニナシ。延喜大嘗會式ニ、凡北野齋場雜舍事畢テ壞却トアリ。又延德二年ニ大神宮ノ御體吉田齋場所ヘ飛御ト兼倶密奏シ、二宮祠官等ヲ騷動セシム。此時ヨリ吉田ノ卜部ヲ神敵ト稱シテ神宮ニテハ嬰兒マテモ是ヲ忌メリ。天正十五年神祇官廢亡ノ後、吉田ニ八神殿アルヲ以テ神祇官ノ事ニ申ナシテ、慶長十四年九月十五日ノ奉幣ヨリ始テ吉田山ヨリ發遣セラル。例幣御再興ノ時モ其儀ヲ改ラレス、今ニ至リテ吉田山ヨリ發セラル。

独自訓読

神嘗祭。九月十一日、天皇は八省院へ行幸あり、小安殿に御座して勅使を発せらる。その儀、中臣は一の版に就き、忌部は二の版に就き、卜部はその後に従う。天皇は先に忌部を召す。忌部は参り、外宮の御幣を取りて後取に授く。その後、内宮の御幣を内蔵寮に奉る。調進の時は五色の絹各一疋と木綿を取り、次に中臣を召す。中臣進みて参る。勅に「吉日、申し、また奉礼せよ」と云う。中臣「唯」と称して出づ。上卿を召して宣命を給う。 『延喜式』に云う、「神嘗祭の幣帛使は、王の五位以上にして卜食せる者を取りてこれに充つ」と。これに依りて、この条の使には王・中臣・忌部・卜部の四姓を遣わさる。王氏は天子の孫・曾孫・玄孫のうち、親王の宣下もなく氏姓も賜わらざる者を何王と云う。伊勢は天子の祖廟なる故に王氏を遣わさる。春日社の勅使に藤原氏、梅宮社の勅使に橘氏を用い給うも、皆その神の苗裔を用いるなり。王孫と云えども玄孫の子は用いず。四代を過ぎて親尽くる故なり。 『貞観儀式』に云う、「外記録に王氏の歴名を封じ、これを神祇官に令す」と。上に云う、「諸王、親王より五世は、王の名を得るといえども皇親の限りにあらず」と。今の白河殿は、花山院の御子、弾正尹清仁親王の後胤なり。彼の家は四位・五位の時に源の姓を賜る。神祇伯に任ずる時は王氏に復し、また伯を辞しては源の姓を賜るなり。往昔、神祇伯たる人が使の王となる例も時々見たり。 中臣は天児屋命の故事によりて祝詞をつかさどり、忌部は太玉命の故事によりて幣帛をつかさどる。卜部は忌部の後に候い、後取り・殺し、また行路の解除を候せしむ。およそ勅使参向には祓あり。古来、宣命には王・中臣・忌部の三使を載すれど、卜部は載せられずと。『中右記』に云う、「伊勢宣命の中、載せ難ければ、差す中臣・忌部・卜部、明日部者は載せざるなり」と。これは例のこと、一人にて卜部の参勤なき故に、『延喜式』に云う、「祈年・月次祭の使参入せば、大神宮司の卜部祇候し、多気河の解除料あり」と。また『延喜式』に云う、「卜部一人を大神宮司に置き、年中の雑事を卜せしむ」と。云う、「その衣粮は神封物をもってこれを給う」と。卜部参勤の故に式文には除けり。 この祭には神馬も二宮へ四足奉らる。うち二疋には鞍を置く。十五日に離宮院の大祓神事ありて、十六日は外宮の御祭、十七日は内宮の御祭なり。官幣ならびに宮司・祢宜より奉る織りの御衣は、正殿へ奉納し、宝殿に納む。今なおまた宮司が荷前御調の絹を進るを東宝殿に納むること、六月御調の糸のごとし。神郡の百姓家、九月十六日の御遊・倭舞・酒立あり。斎内親王も参り給う。五節の舞・鳥名子舞あり。皆、月次祭に同じ。十八日、離宮院の豊明神事等、これまた月次祭に同じ。 按ずるに、『公事根源』には、朔日より十一日に至るまで僧尼・重服の人は参内せず。これは大神事なる故なり。例幣と云うは大神宮へ幣を奉らせ給う毎年の事なるによって例幣と云う。朱雀院の御時より始めらる。養老五年九月十一日に初めて官幣を奉ると記せり。『続日本紀』に、「養老五年九月乙卯、天皇、大安殿に御し、使を遣わして幣帛を伊勢太神宮に供し、皇太子の女・井上王をもって斎内親王となす」と。乙卯は十一日なれば、『公事根源』に載せるはこの事なるべし。神宮への余の勅使は養老より前にもこれあり。 この祭の勅使は応仁の頃に絶え、祠官等ばかり執行せしに、正保の聖朝に再興ありてより今に至るまで、王・中臣・忌部の勅使が参勤して官幣を奉らるるなり。しかるべき諸王なきにや、王氏代を遣わさる。忌部はその氏族分明ならざる故に、これもまた忌部代を用いられ、二氏ともに宣命には仮名を載せらるるなり。卜部の参勤なき故に、司家より卜部代が宮川へ往きて祓を勤む。 卜部を幣使より除けられたる子細は、吉田神主・卜部兼倶という者、乱世に横行して奸偽をほしいままにし、「神武帝、初めて斎場を大和国胆駒山に建て給い、嵯峨帝、如意峰に移し建て、日本最上との聖勅を成し給う」と、跡形もなき偽言を云い出し、大樹義尚公の母公・藤原富子によりて斎場所再興として、文明十六年に神楽岡に八角の堂を建て、大元宮斎場所と号して今にあり、とする。延徳元年三月、義尚公薨ず。享年二十五歳。また翌年、大前の大樹義政公薨ぜらる。神明の納受なき故か。斎場というは、大嘗会を行わるる時、北野に造立ありて、祭礼畢りて後は破却せらる。平日に斎場所なる事、古今の記になし。『延喜大嘗会式』に「およそ北野斎場の雑舎、事畢りて壊却す」とあり。 また延徳二年に「大神宮の御体、吉田斎場所へ飛御」と兼倶が密奏し、二宮の祠官等を騒動せしむ。この時より吉田の卜部を神敵と称して、神宮にては嬰児までもこれを忌めり。天正十五年に神祇官廃亡の後、吉田に八神殿あるをもって神祇官の事に申しなし、慶長十四年九月十五日の奉幣より初めて吉田山より発遣せらる。例幣再興の時もその儀を改められず、今に至りて吉田山より発せらる。

独自現代語訳

神嘗祭では、九月十一日に天皇が八省院へ行幸し、小安殿に着座して勅使を派遣します。その際、中臣は第一の版、忌部は第二の版に着き、卜部はその後ろに従います。天皇はまず忌部を召します。忌部は参上し、外宮へ奉る御幣を取って後取に渡します。その後、内宮の御幣を内蔵寮へ納めます。幣物を調える時には、五色の絹を各一疋と木綿を取り、次に中臣を召します。中臣は進み出て参上します。本文は勅の文言を「吉日、申して、また奉礼せよ」と記します。中臣は「唯」と応答して退出します。その後、天皇が上卿を召して宣命を授けます。 『延喜式』には、神嘗祭の幣帛使には、五位以上の王のうち卜占で選ばれた者を充てるとあります。この規定に従い、使には王・中臣・忌部・卜部の四姓が遣わされます。ここでいう王氏とは、天皇の孫・曾孫・玄孫のうち、親王の宣下を受けず、氏姓も賜っていない者を「何王」と呼ぶものだと説明します。伊勢は天皇の祖廟であるため、王氏を遣わすのだとします。春日社の勅使に藤原氏、梅宮社の勅使に橘氏を用いるのも、いずれも祭神の子孫を用いる例だと説きます。ただし王孫であっても玄孫の子は用いず、四代を過ぎれば親族関係が尽きるためだとします。 『貞観儀式』には、外記の記録に王氏の歴名を封じ、神祇官へ送らせることが記されているとします。また本文は、諸王は親王から五世になると、王の名を持っていても皇親の範囲には入らない、という規定を引きます。当時の白河殿は、花山院の皇子で弾正尹であった清仁親王の子孫だと説明します。その家では、四位・五位の時には源姓を賜ります。神祇伯に任じられる時には王氏へ復し、伯を辞した後には再び源姓を賜るといいます。昔、神祇伯であった人が奉幣使の王を務めた例も、時々見られると述べます。 中臣は天児屋命の故事によって祝詞を担当し、忌部は太玉命の故事によって幣帛を担当すると説明します。卜部については、忌部の後ろに控え、原文に「後取リ殺シ」と記される作法と、道中の解除を担当させたとあります。勅使が参向する際には祓を行います。古来、宣命には王・中臣・忌部の三使を記す一方、卜部は記載しなかったと述べます。『中右記』からは、「伊勢宣命之中難載スヘレハ差中臣忌部卜部明日部者不載也」という一節を引きます。「明日部者」の語切りには不明な点がありますが、卜部を宣命本文に載せない例を説明する引用として掲げています。本文は、これが通例であり、一人で務めて卜部が参勤しないためだと説明します。 さらに『延喜式』を引き、祈年祭・月次祭の使が参入する時には、大神宮司の卜部が伺候し、多気河で行う解除の料があると述べます。別の『延喜式』の文として、大神宮司に卜部一人を置き、年間の諸事を占わせる、という規定を引きます。また、その衣服と食糧は神封物から支給する、と記します。本文は、卜部がこのように参勤するため、先の式文では使の列から除かれているのだと説明します。 この祭では、神馬も両宮へ合わせて四疋奉ります。そのうち二疋には鞍を置きます。十五日には離宮院で大祓の神事があり、十六日は外宮の祭、十七日は内宮の祭です。官幣と、宮司・祢宜から奉る織りの御衣は、正殿へ奉納したうえで宝殿に納めます。当時も宮司が荷前御調の絹を献じ、それを東宝殿へ納めることは、六月御調の糸と同様だと述べます。続く「神郡ノ百姓家」は後文との統語関係が明瞭ではありませんが、原文はその後、九月十六日に御遊・倭舞・酒立があると記します。斎内親王も参列します。五節の舞と鳥名子舞もあります。これらはすべて月次祭と同じだとします。十八日に離宮院で行う豊明の神事なども、月次祭と同じです。 『公事根源』を考え合わせると、九月一日から十一日まで、僧尼と重服中の者は参内しなかったといいます。これは重大な神事であるためだと説明します。「例幣」とは、大神宮へ毎年幣を奉る行事なので、例幣と呼ぶのだとします。この行事は朱雀院の時代から始められたと述べます。他方で、養老五年九月十一日に初めて官幣を奉ったとも記します。『続日本紀』からは、養老五年九月乙卯、天皇が大安殿に着座し、使者を遣わして伊勢太神宮に幣帛を供え、皇太子の娘である井上王を斎内親王とした、という記事を引きます。乙卯は十一日に当たるので、『公事根源』の記事はこの出来事を指すのだろうと推定します。ただし、神宮へ遣わされた他の勅使は、養老年間より前にもあったと述べます。 この祭の勅使は応仁の頃に途絶え、その間は祠官たちだけで祭を執行したといいます。その後、正保年間の朝廷によって再興されて以来、著者の時代まで、王・中臣・忌部の勅使が参勤して官幣を奉ったと述べます。適任の諸王がいなかったためか、「王氏代」という代理を遣わす場合があったとします。忌部も氏族が明らかでないため「忌部代」を用い、王氏代・忌部代ともに、宣命には仮名を記したと説明します。卜部は参勤しないため、司家から卜部代が宮川へ行き、祓を務めたと述べます。 ここから本文は、卜部が幣使から除かれた事情について著者の見解を述べます。著者は、吉田神主の卜部兼倶が乱世に活動し、偽りをほしいままにした、と強く批判します。兼倶が、神武天皇は初めて斎場を大和国胆駒山に建てた、と主張したと記します。さらに嵯峨天皇が斎場を如意峰へ移し、日本で最上であるとの勅命を下した、と兼倶が主張したとします。著者は、それを根拠のない偽言だと断じます。そして将軍義尚の母・藤原富子の後援により「斎場所再興」と称して、文明十六年に神楽岡へ八角堂を建て、「大元宮斎場所」と号し、それが著者の時代まで存在したと述べます。 延徳元年三月に義尚が亡くなり、享年は二十五歳だったと記します。また翌年には、先代将軍の義政も亡くなったと述べます。著者はこれを「神明が納受しなかったためだろうか」と推測します。ただし、この因果関係は著者自身の宗教的評価です。著者によれば、斎場とは大嘗会を行う時に北野へ造営し、祭礼終了後には取り壊すものです。日常的に斎場を設置することは、古今の記録にないと述べます。その根拠として『延喜大嘗会式』の、およそ北野斎場の諸建物は行事終了後に壊却する、という規定を引きます。 また延徳二年には、伊勢大神宮の神体が吉田の斎場所へ飛来した、と兼倶が密奏したと記します。そのため内宮・外宮の祠官たちを騒動させたと述べます。著者は、この時から吉田の卜部を「神敵」と呼び、神宮では幼児に至るまで忌み嫌った、と記します。これは著者の批判的叙述であって、現代の評価として断定するものではありません。天正十五年に神祇官が廃絶した後、吉田に八神殿があることを理由に、吉田が神祇官の役割を担うものとされたと説明します。そして慶長十四年九月十五日の奉幣から、奉幣使を初めて吉田山より派遣するようになったと述べます。例幣が再興された時にもその方式は改められず、著者の時代まで吉田山から使が派遣されていた、と結びます。

臨時奉幣

SZ-0005・C102430120800-L–C102430120900-R 校了

原文翻刻

臨時奉幣御即位御元服大嘗會齋王卜定等其外種々ノ御祈ノ奉幣ヲ臨時ノ奉幣ト云由ノ奉幣トモ云ナリ假今ハ御即位由奉幣御元服由奉幣ト云ヘキヲ上ノ二字ヲ略シテ云習ハシタリ禁秘抄ニ三月三日由ノ祓ト云モ御燈不奉由ノ祓ナリ由ノ奉幣ト云モ此例ナリ又一社奉幣ト云ハ二十二社ノ中取分テ伊勢一社ヘ奉ラルレハ一社奉幣ト云ナリ二社又奉幣三社ノ奉幣ト云コト數多見タリ其儀大ハ八省或ハ建禮門或ハ神祇官ニテ行ハル時ニヨリテ天子行幸アリ又上卿陣ニテ使ヲ發ラル使ハ四姓氏人ナリ宣命アリ又神馬ヲ奉ラル同日諸社ヘ奉幣ノ事アレハ天子還御ノ後上卿陣頭ニ就テ諸社ノ幣ヲ領ル大神宮ノ事ハ諸社ニ異ナル故ナリ内宮年中行事云臨時奉幣使參宮次第大略如九月御祭之時但於錦綾者奉納東寶殿例也使直會殿ヨリ直ニ退出御遊酒立ナシ

独自句読

臨時奉幣 御即位御元服大嘗會齋王卜定等其外種々ノ御祈ノ奉幣ヲ臨時ノ奉幣ト云。由ノ奉幣トモ云ナリ。假今ハ御即位由奉幣御元服由奉幣ト云ヘキヲ上ノ二字ヲ略シテ云習ハシタリ。禁秘抄ニ、三月三日由ノ祓ト云モ御燈不奉由ノ祓ナリ。由ノ奉幣ト云モ此例ナリ。又一社奉幣ト云ハ二十二社ノ中取分テ伊勢一社ヘ奉ラルレハ一社奉幣ト云ナリ。二社又奉幣三社ノ奉幣ト云コト數多見タリ。其儀大ハ八省或ハ建禮門或ハ神祇官ニテ行ハル。時ニヨリテ天子行幸アリ。又上卿陣ニテ使ヲ發ラル。使ハ四姓氏人ナリ。宣命アリ。又神馬ヲ奉ラル。同日諸社ヘ奉幣ノ事アレハ、天子還御ノ後上卿陣頭ニ就テ諸社ノ幣ヲ領ル。大神宮ノ事ハ諸社ニ異ナル故ナリ。内宮年中行事云、臨時奉幣使參宮次第大略如九月御祭之時但於錦綾者奉納東寶殿例也。使直會殿ヨリ直ニ退出。御遊酒立ナシ。

独自訓読

臨時奉幣。御即位・御元服・大嘗会・斎王卜定等、そのほか種々の御祈りの奉幣を臨時の奉幣という。由の奉幣ともいうなり。たとえば今、御即位由奉幣・御元服由奉幣というべきを、上の二字を略して云い習わしたり。『禁秘抄』に「三月三日由の祓」と云うも、「御燈不奉由の祓」なり。「由の奉幣」と云うもこの例なり。 また一社奉幣というは、二十二社の中より取り分けて伊勢一社へ奉らるれば、一社奉幣というなり。二社奉幣、三社の奉幣と云うことも数多見たり。その儀、大なるは八省院、あるいは建礼門、あるいは神祇官にて行わる。時によりて天子の行幸あり。また上卿、陣にて使を発せらる。使は四姓の氏人なり。宣命あり。また神馬を奉らる。 同日、諸社へ奉幣のことあれば、天子還御の後、上卿は陣頭に就きて諸社の幣を領る。大神宮のことは諸社に異なる故なり。『内宮年中行事』に云う、「臨時奉幣使参宮の次第、大略、九月御祭の時のごとし。ただし錦綾においては、東宝殿に奉納するを例となす」と。使は直会殿より直ちに退出す。御遊・酒立なし。

独自現代語訳

即位・元服・大嘗会・斎王の卜定、その他のさまざまな祈願に際して行う奉幣を「臨時奉幣」と呼びます。また、その実施理由を表す「由の奉幣」とも呼び、たとえば「御即位由奉幣」「御元服由奉幣」と言うべきところを、前の二字を省いて呼ぶ慣用があったと説明します。『禁秘抄』の「三月三日由の祓」も、本来は「御燈不奉由の祓」であり、同じ省略例だとしています。 二十二社のうち伊勢だけへ奉幣する場合は「一社奉幣」といい、二社・三社へ奉る例もありました。大規模な儀式は八省院・建礼門・神祇官などで行われ、場合によっては天皇が出御し、また上卿が陣で奉幣使を派遣しました。使には王氏・中臣氏・忌部氏・卜部氏という四姓の氏人を充て、宣命と神馬も伴ったと記します。 同じ日に他の諸社へも奉幣する時は、天皇の還御後に上卿が陣頭で諸社の幣を受け取りますが、伊勢大神宮の奉幣は他の諸社とは扱いが異なると説明します。『内宮年中行事』を引き、臨時奉幣使の参宮次第はおおむね九月の神嘗祭と同じで、錦や綾は東宝殿に納めるのが例であり、使は直会殿からそのまま退出し、御遊や酒立は行わなかったと述べます。

臨時祭

SZ-0006・C102430120900-R–C102430120900-L 校了

原文翻刻

臨時祭長則神事供奉記云延應三年七月廿三日公家臨時御祭二箇度其年月不知大副大中臣朝臣隆通云々其儀式舞人饗膳祿物等ノ事アリ百練抄云仁治三年五月十五日丙申將軍家被行大神宮臨時祭舞人裝束已下移被調下權弘安九年二月一日治部少輔兼神祇權大副状云大神宮臨時祭舞人事宮司子孫不從催促改補父祖勤任自由押領食者太ク不可然神事之勤仕前功論後勞之由可被下知右祭號臨時祭少朝臣奉正和三年十一月十九日臨時祭ノ勤行文ヲ載タリ其體遷宮勤行文ニ同シ賀茂石清水等ノ儀ニ准シテ此祭ヲ執行ハレシニヤ

独自句読

臨時祭。長則神事供奉記云、延應三年七月廿三日、公家臨時御祭二箇度、其年月不知、大副大中臣朝臣隆通云々。其儀式、舞人、饗膳、祿物等ノ事アリ。百練抄云、仁治三年五月十五日丙申、將軍家被行大神宮臨時祭。舞人裝束已下、移被調下權。弘安九年二月一日、治部少輔兼神祇權大副状云、大神宮臨時祭舞人事、宮司子孫不從催促、改補父祖勤任、自由押領食者太ク不可然。神事之勤仕、前功論後勞之由、可被下知。右祭、號臨時祭。少朝臣奉、正和三年十一月十九日臨時祭ノ勤行文ヲ載タリ。其體、遷宮勤行文ニ同シ。賀茂、石清水等ノ儀ニ准シテ、此祭ヲ執行ハレシニヤ。

独自訓読

臨時祭。長則『神事供奉記』に云ふ、延應三年七月二十三日、公家、臨時の御祭二箇度、其の年月知らず、大副大中臣朝臣隆通云々。其の儀式、舞人・饗膳・祿物等の事あり。『百練抄』に云ふ、仁治三年五月十五日丙申、將軍家、大神宮臨時祭を行はる。舞人裝束以下、移し調へ下さるる權[「移被調下權」の訓未決]。弘安九年二月一日、治部少輔兼神祇權大副の状に云ふ、大神宮臨時祭舞人の事、宮司子孫、催促に從はず、父祖勤任を改補し、自由に押領食するは太だ然るべからず。神事の勤仕は、前功を論じ、後勞の由、下知せらるべし。右の祭、臨時祭と號す。「少朝臣奉」以下、正和三年十一月十九日の臨時祭の勤行文を載せたり[「少朝臣奉」の係り方未決]。其の體、遷宮勤行文に同じ。賀茂・石清水等の儀に准じて、此の祭を執行はれしにや。

独自現代語訳

臨時祭について、長則の『神事供奉記』は、「延応三年七月二十三日」「公家臨時御祭二箇度」「其年月不知」と続け、神祇大副の大中臣隆通の説を引く、と記す。ただし、この年紀と二度の臨時祭、さらに「その年月は知らず」という文言がそれぞれどの事例に係るかは確定しない。そこには舞人・饗膳・禄物などの儀式があったという。『百練抄』からは、仁治三年五月十五日に将軍家が大神宮の臨時祭を行い、舞人の装束以下を調えさせたと読めるが、末尾の「移被調下權」の構文は確定しない。弘安九年二月一日付の治部少輔兼神祇権大副の文書は、大神宮臨時祭の舞人について、宮司の子孫が催促に従わず、父祖以来の勤仕を改め、自由に権益を占有するのは不当であり、神事への奉仕は従前の功績と以後の労を論じて下知すべきだ、と述べる。続いて正和三年十一月十九日の臨時祭勤行文を載せ、その形式は遷宮の勤行文と同じで、賀茂・石清水などの儀式に準じて執行されたのだろうか、と考察する。ただし「少朝臣奉」の係り方は確定しない。

大奉幣

SZ-0007・C102430120900-L–C102430121000-R 校了

原文翻刻

大奉幣神祇令ニ云凡天皇即位總祭天神地祇散齋一月致齋三日其次大幣者三月之内令修理諸神幣物色目金水桶金銀柱奉ル伊勢神宮ニ楯戈奉ル准古神之類是也三月之内ト云者唯月ニ拘ハラス日ヲ以テ計ル即始テ自九月終ニ此三月也大嘗會式云差遣供幣帛於天神地祇使云太神宮三ハ四姓ノ使ヲ遣サレ五畿内并七道ニハ中臣忌部ノ兩氏ヲ使トシテ幣帛ヲ奉ラル大社十八箇所ハ各絹五尺五色薄絁各一尺絲一絇綿一屯木綿二兩麻五兩小社ハ各絹三尺絲一絇綿一屯木綿二兩麻五兩寛元四年十二月日大嘗會由ノ奉幣使ト同日大奉幣使參宮次第如臨時奉幣使時但於御神寶者奉納正殿也大宮司状云大嘗祭奉幣事不可然候并月次祭可被行也且可令告知宮之狀如何件

独自句読

大奉幣。神祇令ニ云、凡天皇即位、總祭天神地祇、散齋一月、致齋三日。其次大幣者、三月之内、令修理諸神幣物。色目、金水桶、金銀柱、奉ル伊勢神宮ニ。楯、戈奉ル。准古神之類、是也。三月之内ト云者、唯月ニ拘ハラス、日ヲ以テ計ル。即、始テ自九月、終ニ此三月也。大嘗會式云、差遣供幣帛於天神地祇使云。太神宮三ハ、四姓ノ使ヲ遣サレ、五畿内并七道ニハ、中臣、忌部ノ兩氏ヲ使トシテ、幣帛ヲ奉ラル。大社十八箇所ハ、各絹五尺、五色薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二兩、麻五兩。小社ハ、各絹三尺、絲一絇、綿一屯、木綿二兩、麻五兩。寛元四年十二月日、大嘗會由ノ奉幣使ト同日、大奉幣使參宮。次第、如臨時奉幣使時。但、於御神寶者、奉納正殿也。大宮司状云、大嘗祭奉幣事、不可然候。并月次祭、可被行也。且可令告知宮之狀、如何。件。

独自訓読

大奉幣。『神祇令』に云ふ、凡そ天皇即位し、天神地祇を總祭するに、散齋一月、致齋三日。其の次の大幣は、三月の内、諸神の幣物を修理せしむ。色目は、金の水桶、金銀の柱を伊勢神宮に奉り、楯・戈を奉る。古神に准ずるの類、是れなり。「三月之内」と云ふは、唯だ月に拘はらず、日を以て計る。即ち始めて九月より、終りに此の三月なり[期間の解釋未決]。『大嘗會式』に云ふ、天神地祇に幣帛を供する使を差し遣はす、と云ふ。「太神宮三ハ」、四姓の使を遣はされ、五畿内并びに七道には、中臣・忌部の兩氏を使として、幣帛を奉らる[「三ハ」の訓未決]。大社十八箇所は、各々絹五尺、五色の薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二兩、麻五兩。小社は、各々絹三尺、絲一絇、綿一屯、木綿二兩、麻五兩。寛元四年十二月日、大嘗會由の奉幣使と同日、大奉幣使、參宮す。次第、臨時奉幣使の時の如し。但し、御神寶に於いては、正殿に奉納するなり。大宮司の状に云ふ、大嘗祭奉幣の事、然るべからず候。并びに月次祭、行はるべきなり。且つ宮に告げ知らしむべきの状、如何。件。

独自現代語訳

大奉幣について、『神祇令』は、天皇の即位に際して天神地祇を広く祭るとき、散斎を一か月、致斎を三日行い、その後三か月以内に諸神へ奉る幣物を整えさせる、とする。続く品目説明は、金の水桶、金銀の柱を伊勢神宮に奉り、楯・戈を奉ることなどを古い神々への先例に準じるものとして挙げる、と読んだ。「三月之内」は暦月に限らず日数で数えると説明するが、「始テ自九月終ニ此三月」の期間の取り方は確定しない。『大嘗会式』の引用は、天神地祇へ幣帛を供える使者を派遣し、太神宮には四姓の使者、畿内と七道には中臣・忌部両氏を使者として幣帛を奉ること、また大社十八か所と小社に絹・薄絁・糸・綿・木綿・麻をそれぞれ定量供えることを記す。ただし底本の「太神宮三ハ」は字面のまま保持し、「には」等へ改めていない。寛元四年十二月には、大嘗会に伴う奉幣使と同日に大奉幣使が参宮し、次第は臨時奉幣使と同様で、神宝は正殿に納めたという。末尾の大宮司の文書は、大嘗祭の奉幣に否定的な見解を示しつつ、月次祭の執行と宮への告知を求める文面と読める。

大神寶

SZ-0008・C102430121000-L–C102430121200-R 校了

原文翻刻

大神寶御即位ノ後伊勢以下京畿七道ノ諸神ヘ神寶奉ラルヽナリ一代一度ノ大神寶ト云是ナリ皇字沙汰文云寛元三年十一月十三日宣命云先々乃御代御代乃例即位之後神寶造幣奉出給有故是以吉日良辰擇定錦蓋海簾并御服玉佩寶鏡等乃種々乃神寶并潔ク妙ニ行資王從五位下加賀權守行資王中臣正四位下行神祇權少副大中臣朝臣知長等ヲ差使云云先神寶御覽アリテ八省ヨリ發遣ナリ公卿勅使續日本紀ニ天平廿年五月辛卯使右大臣正三位公卿使右大臣正三位橘宿禰諸兄神祇伯從四位下中臣朝臣名代右少辨從五位下紀朝臣宇美陰陽頭外從五位下高麥大贄神寶奉于伊勢太神宮トアリ是ヨリ公卿勅使始リテ天和二年ノ勅使ニ至ルマテ其例凡一百十五箇度ナリ大中納言參議已上參向ノ例繁多ナリ大臣勅使ハ邂逅ノ事ナリ毎度王中臣忌部ト卜部副參リ八省行幸等ノ儀ハ例幣ニ同シ或ハ禮代御幣ニ神寶ヲ副獻セラレ或ハ禰宜ニ加階ヲ給フ宸筆宣命ヲ奉ラル其宣命伊勢ハ筆ノ宣命ハ白紙ヲ用ラル勅使外宮ニテ續テ之ヲ宣次ニ内宮ニテ讀畢リ神前ニテ奉燒ス宣命ヲ奉ラルハ寛弘二年發遣ノ日ヨリ參宮ノ日ニ及マテ天皇清涼殿ノ東庭ニ出御ナリテ毎夜太神宮ヲ御拜アル事古記ニ見ヘタリ使離宮院ニ參着參宮ノ儀ハ臨時奉幣ノ時ノ如シ尤嚴重ナリ宮幣ハ正殿奉納ナリ勅使直會殿饗座ニ着テ或ハ正權禰宜内人物忌等ノ祿物群袴等ヲ給ナリ此勅使嘉暦三年九月六日權大納言宣房卿發遣ノ後遙ニ中絶セシヲ正保四年九月十一日參議綏光卿進發ニテ絶タルヲ繼テ御再興ナリ其後天和二年正月廿九日參議左大辨宗顯卿ヲ發遣セラル中右記云永久二年正月廿七日公卿勅使權中納言右兵衞督宗忠發遣二月三日天陰雨下參宮云神祇少副兼政經數日來談云參宮之日逢大雨者延日ノ後日可被參宮事也以吉日出京畢於參宮日者公家殿不可知食事也雨儀甚無便宜雖經一兩日猶待晴日可被參宮也者申旨尤有其謂爲後日所記置也

独自句読

大神寶。御即位ノ後、伊勢以下、京畿七道ノ諸神ヘ神寶奉ラルヽナリ。一代一度ノ大神寶ト云、是ナリ。皇字沙汰文云、寛元三年十一月十三日、宣命云、先々乃御代御代乃例、即位之後、神寶造幣奉出給有故。是以、吉日良辰擇定、錦蓋、海簾、并御服、玉佩、寶鏡等乃種々乃神寶、并潔ク妙ニ、行資王、從五位下加賀權守行資王、中臣、正四位下行神祇權少副大中臣朝臣知長等ヲ差使云云。先、神寶御覽アリテ、八省ヨリ發遣ナリ。公卿勅使。續日本紀ニ、天平廿年五月辛卯、使右大臣正三位、公卿使右大臣正三位橘宿禰諸兄、神祇伯從四位下中臣朝臣名代、右少辨從五位下紀朝臣宇美、陰陽頭外從五位下高麥大贄、神寶奉于伊勢太神宮トアリ。是ヨリ公卿勅使始リテ、天和二年ノ勅使ニ至ルマテ、其例凡一百十五箇度ナリ。大中納言、參議已上參向ノ例繁多ナリ。大臣勅使ハ邂逅ノ事ナリ。毎度、王、中臣、忌部ト卜部、副參リ。八省、行幸等ノ儀ハ、例幣ニ同シ。或ハ禮代御幣ニ神寶ヲ副獻セラレ、或ハ禰宜ニ加階ヲ給フ。宸筆宣命ヲ奉ラル。其宣命、伊勢ハ、筆ノ宣命ハ白紙ヲ用ラル。勅使、外宮ニテ續テ之ヲ宣、次ニ内宮ニテ讀畢リ、神前ニテ奉燒ス。宣命ヲ奉ラルハ寛弘二年。發遣ノ日ヨリ參宮ノ日ニ及マテ、天皇、清涼殿ノ東庭ニ出御ナリテ、毎夜太神宮ヲ御拜アル事、古記ニ見ヘタリ。使、離宮院ニ參着。參宮ノ儀ハ臨時奉幣ノ時ノ如シ。尤嚴重ナリ。宮幣ハ正殿奉納ナリ。勅使、直會殿饗座ニ着テ、或ハ正權禰宜、内人、物忌等ノ祿物、群袴等ヲ給ナリ。此勅使、嘉暦三年九月六日、權大納言宣房卿發遣ノ後、遙ニ中絶セシヲ、正保四年九月十一日、參議綏光卿進發ニテ、絶タルヲ繼テ御再興ナリ。其後、天和二年正月廿九日、參議左大辨宗顯卿ヲ發遣セラル。中右記云、永久二年正月廿七日、公卿勅使、權中納言右兵衞督宗忠發遣。二月三日、天陰、雨下、參宮。云、神祇少副兼政經、數日來談云、參宮之日逢大雨者、延日ノ後日可被參宮事也。以吉日出京畢、於參宮日者、公家殿不可知食事也。雨儀、甚無便宜。雖經一兩日、猶待晴日、可被參宮也者。申旨、尤有其謂。爲後日、所記置也。

独自訓読

大神寶。御即位の後、伊勢以下、京畿七道の諸神へ神寶を奉らるるなり。一代一度の大神寶と云ふは、是れなり。『皇字沙汰文』に云ふ、寛元三年十一月十三日の宣命に云ふ、先々の御代御代の例、即位の後、神寶を造り、幣を奉り出だし給ふこと有るが故なり。是を以て、吉日良辰を擇び定め、錦蓋・海簾、并びに御服・玉佩・寶鏡等の種々の神寶、并びに潔く妙に、行資王、從五位下加賀權守行資王、中臣、正四位下行神祇權少副大中臣朝臣知長等を使に差す、云々[人名列・「并潔ク妙ニ」の係り方未決]。先づ神寶の御覽ありて、八省より發遣なり。公卿勅使。『續日本紀』に、天平二十年五月辛卯、使右大臣正三位、公卿使右大臣正三位橘宿禰諸兄、神祇伯從四位下中臣朝臣名代、右少辨從五位下紀朝臣宇美、陰陽頭外從五位下高麥大贄、神寶を伊勢太神宮に奉る、とあり[肩書・人名列は底本字面のまま]。是より公卿勅使始まりて、天和二年の勅使に至るまで、其の例凡そ百十五箇度なり。大中納言・參議已上參向の例、繁多なり。大臣勅使は邂逅の事なり。毎度、王・中臣・忌部と卜部、副へ參り[「副參リ」の係り方未決]。八省・行幸等の儀は、例幣に同じ。或いは禮代御幣に神寶を副へ獻ぜられ、或いは禰宜に加階を給ふ。宸筆の宣命を奉らる。其の宣命、伊勢は、筆の宣命には白紙を用ゐらる。勅使、外宮にて續いて之を宣し、次に内宮にて讀み畢り、神前にて燒き奉る。宣命を奉らるるは寛弘二年。發遣の日より參宮の日に及ぶまで、天皇、清涼殿の東庭に出御なりて、毎夜太神宮を御拜ある事、古記に見えたり。使、離宮院に參着す。參宮の儀は臨時奉幣の時の如し。尤も嚴重なり。宮幣は正殿奉納なり。勅使、直會殿の饗座に着きて、或いは正權禰宜・内人・物忌等の祿物、「群袴」等を給ふなり[「群袴」は低確度字]。此の勅使、嘉暦三年九月六日、權大納言宣房卿發遣の後、遙かに中絶せしを、正保四年九月十一日、參議綏光卿進發にて、絶えたるを繼ぎて御再興なり。其の後、天和二年正月二十九日、參議左大辨宗顯卿を發遣せらる。『中右記』に云ふ、永久二年正月二十七日、公卿勅使、權中納言右兵衞督宗忠、發遣。二月三日、天陰り、雨下り、參宮す。云ふ、神祇少副兼政經、數日來談じて云ふ、參宮の日、大雨に逢はば、日を延べたる後日、參宮せらるべき事なり。吉日を以て京を出で畢り、參宮の日に於いては、公家殿、食す事を知るべからざるなり[「公家殿不可知食事也」の訓未決]。雨の儀、甚だ便宜無し。一兩日を經ると雖も、猶ほ晴日を待ち、參宮せらるべきなり、と。申す旨、尤も其の謂れ有り。後日の爲、記し置く所なり。

独自現代語訳

大神宝とは、天皇の即位後、伊勢をはじめ都周辺と七道の諸神へ神宝を奉る、一代に一度の儀礼だと説明する。『皇字沙汰文』として引く寛元三年十一月十三日の宣命は、歴代の先例により、即位後に神宝を造って幣とともに奉るため、吉日を選び、錦蓋・海簾・御服・玉佩・宝鏡などの神宝を整え、行資王や大中臣知長らを使者に任じた、と読める。ただし「海簾」は中程度の確度で採られた字であり、「并潔ク妙ニ」と重複する行資王を含む人名・官職列の構造も確定しない。神宝を天皇が先に覧になった後、八省から使者を送り出したという。続く『続日本紀』の引用は、天平二十年五月の伊勢太神宮への神宝奉納を、公卿勅使の始まりとして掲げる。ただし底本には官職と人名の重複や「高麥大贄」など解釈未決の字列があり、本文どおりに保持した。著者は、天和二年までの例が約百十五度あり、大中納言・参議以上が参向する例は多いが、大臣が勅使となるのはまれだと述べる。また毎回、王・中臣・忌部と卜部が副参した旨を記すが、この随行者列と「副參リ」の係り方は確定しない。さらに底本は「八省・行幸等の儀は例幣に同じ」とするが、「八省」と「行幸等」の語切り・係り方は確定しない。神宝を幣に添え、禰宜に位階を加え、天皇自筆の宣命を奉ったという。宣命は白紙を用い、外宮で宣した後、内宮で読み終えて神前で焼いたとする。また寛弘二年の例として、使者の出発から参宮まで、天皇が清涼殿東庭で毎夜太神宮を拝したことを古記に見るという。使者は離宮院に着き、臨時奉幣と同様の厳重な次第で参宮し、宮幣を正殿へ納め、直会殿の饗座で正権禰宜・内人・物忌らに禄物と、底本が「群袴」と記す品などを与えたとする。「群袴」は画像上の採字確度が低く、具体的な品名の断定を避ける。さらに、嘉暦三年の権大納言宣房卿の派遣後に長く中絶し、正保四年の参議綏光卿によって再興され、天和二年には参議左大弁宗顕卿が派遣された、と歴史をたどる。末尾の『中右記』引用は、永久二年の公卿勅使宗忠の参宮に際し、雨天なら一、二日を経てもなお晴日を待って参宮すべきだと神祇少副兼政経が述べたため、後日のために記したという趣旨である。ただし「公家殿不可知食事也」の訓は確定しない。以上は本書が諸史料を配列して示す先例説明の訳であり、引用原典の本文・人物比定・回数を独立に確定したものではない。

著述奥書

SZ-0009・C102430121200-R 校了

原文翻刻

右應春木氏度會宗光之需記之元祿十二年己卯仲秋日大物忌父度會神主益弘下

独自句読

右、應春木氏度會宗光之需、記之。元祿十二年己卯仲秋日、大物忌父度會神主益弘下。

独自訓読

右、春木氏度會宗光の需めに應じ、之を記す。元祿十二年己卯仲秋の日、大物忌父・度會神主益弘、下[小字・意未詳]。

独自現代語訳

以上は、春木氏度会宗光の求めに応じて記したものである。元禄十二年己卯(一六九九)仲秋の日、大物忌父・度会神主益弘。末尾の小字「下」は底本原字として保持するが、その機能と読みは確定しない。

書写奥書

SZ-0010・C102430121200-R–C102430121200-L 校了

原文翻刻

右以益弘神主本寫之此記者志毛井氏延清所持之書也偶得拜覧書寫焉于時享保十一丙午歳二月十八日今村氏養光通享保十八年癸丑正月十二日書寫畢別宮土宮守見物忌父官原高義

独自句読

右、以益弘神主本、寫之。此記者、志毛井氏延清所持之書也。偶得拜覧、書寫焉。于時享保十一丙午歳二月十八日、今村氏養光通。享保十八年癸丑正月十二日、書寫畢。別宮土宮守見物忌父官原高義。

独自訓読

右、益弘神主の本を以て、之を寫す。此の記は、志毛井氏延清所持の書なり。偶たま拜覧を得て、書寫す。時に享保十一丙午歳二月十八日、今村氏養光通。享保十八年癸丑正月十二日、書寫し畢んぬ。別宮土宮守見物忌父官原高義。

独自現代語訳

右の書は、益弘神主の本によって写した。この記録は志毛井氏延清が所持する書で、たまたま閲覧する機会を得て書写した。享保十一年丙午(一七二六)二月十八日、今村氏養光通。続いて、享保十八年癸丑(一七三三)正月十二日に書写を終えた旨と、「別宮土宮守見物忌父官原高義」という署記が記される。これは、SZ-0009の元禄十二年著述奥書とは別の、享保十一年と享保十八年という二段階の伝写記録である。「官」を官職名の末字と見る可能性があるが、語切りを確定せず、原字列「官原高義」を保つ。