背景

野鹿の滝と
薬師堂

野鹿の滝と薬師堂

当宮のございます納田終を、さらに七キロほど奥へ入ってまいりますと、野鹿(のか)の滝がございます。落差三十一メートル、若狭では最も大きな部類に入る滝で、下から仰ぎますと三段に落ちているのが見て取れます。水の量も豊かでございます。

この滝に、ひとつの言い伝えがございます。

平安の中ごろ、奥州に安倍貞任(あべのさだとう)と申す豪族がおりました。前九年の役に源義家と戦って敗れた、その一族でございます。その子孫と伝えられる石王丸(いしおうまる)という者が、戦に敗れて落ち延び、山また山を越えて、ついにこの野鹿の滝にたどり着いたと申します。

追手の迫るなか、滝壺から白い鹿が現れました。薬師如来が鹿に身を変えて姿を見せられたのだと申します。白鹿は石王丸に逃げ道を教え、おかげで彼は難を逃れ、片又谷(かたまただに)に身を潜めて住まうことができました。

幾年か過ぎたある夜、石王丸は夢に薬師如来のお告げを受けます。教えのままに野鹿の滝へ参りますと、瑠璃色の光を放つ玉が三つございました。石王丸はこれを片又谷へ持ち帰り、文治三年(一一八七年)、堂を建てて増福寺と名づけたと伝えられます。

その流れを汲むのが、納田終の薬師堂でございます。増福寺はすでに廃寺となり、いまは加茂神社のかたわらに堂だけが残されております。桁行五間、梁間四間、入母屋造の茅葺きで、四方に縁をめぐらせております。永禄元年(一五五八年)に焼けたのち再び建てられ、元和三年(一六一七年)の棟札の写しが伝わっております。堂には寛文年間の鰐口も残ります。県内でも数少ない江戸初期の茅葺き仏堂として、福井県の有形文化財に指定されております。

茅葺きの屋根は、放っておけば朽ちてまいります。この堂が四百年を保ってまいりましたのは、村の人々が茅場を守り、折々に葺き替えてきたからでございます。平成二十一年には、県の補助を受けて半解体の保存修理が施されました。

薬師如来と泰山府君

この薬師如来は、当宮の泰山府君祭とも縁の浅からぬ仏でございます。

冥府をつかさどる十王のうち、七番目に泰山王(たいざんおう)がおられます。これは道教の泰山府君に由来する御神格でございまして、日本では本地の仏を薬師如来といたしました。

泰山府君は、人の寿命を司る神でございます。薬師如来は、病を癒し、命を延べる仏でございます。寿命という一事において、道の神と仏とが重ねて仰がれてまいりました。当宮が泰山府君祭をもって延命を祈りますのと、この谷の人々が薬師堂に手を合わせてきましたのとは、根のところで同じ願いでございます。

二つの安倍

さて、石王丸の家のことでございます。

安倍貞任の家は奥州の安倍氏、当宮に伝わる安倍晴明公の家は、左大臣・阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)より出た都の阿倍氏でございます。

明治に編まれた『華族類別録』は、この二つをいずれも、孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の後と定めております。斉明天皇の御代に北の海を渡った阿倍比羅夫(あべのひらふ)につながる系図も伝わっております。遠くさかのぼれば、同じ祖でございます。