背景

若狭は
水の国

若狭は水の国

若狭は、水で知られた国でございます。塩と海の幸を都へ運んだ御食国(みけつくに)でございますが、都へ送ったのは食べ物だけではございませんでした。

奈良へ送る水

三月二日、小浜の若狭神宮寺で、お水送りの神事が行われます。

夕刻、本堂で達陀(だったん)の行法が始まります。赤い装束の僧が大きな松明を堂内で振り回し、火の粉が板敷きに舞います。一年の穢れを焼き払う行でございます。

そののち、神宮寺の閼伽井(あかい)で汲んだ水を守って、松明の行列が出ます。上流の鵜(う)の瀬まで、およそ二キロの夜道でございます。何百という松明が闇に連なってまいります。

鵜の瀬に着きますと、その水を遠敷(おにゅう)川へ注ぎます。

この水が地の下を通って、十日ののち、奈良の東大寺二月堂のかたわらの若狭井に届くと申します。三月十二日、二月堂の僧がこれを汲み上げ、御本尊へ香水として供えます。世に名高い、お水取りでございます。

遅れた神

なぜ若狭から水を送るのか。故事がございます。

奈良の昔、東大寺二月堂で修二会が始まりましたとき、諸国の神々が招かれました。ところが遠敷明神だけが、漁に出ておられて遅れられたのでございます。

そのお詫びに、明神は御本尊の十一面観音へ、若狭の水を送ると約束されました。すると二月堂のかたわらの岩から、白と黒の鵜が飛び出し、そのあとから清らかな水が湧き出したと伝えられます。これが若狭井でございます。

神が遅刻をなさる。その詫びに水を送る。千三百年ののちまで、その約束が毎年守られております。

神宮寺そのものも古うございます。和銅七年(七一四年)、若狭一の宮の神願寺として成立し、鎌倉のはじめに若狭彦神社の別当寺・神宮寺と改められました。神と仏がひとつの寺でともに祀られてきた、その姿がいまも残っております。

若狭では、お水送りが終わると春が来ると申します。

白石神社

鵜の瀬から百メートルほど上流、遠敷川の東岸に、白石(しらいし)神社が鎮座しております。若狭彦神社の元宮、すなわち創祀の地でございます。

社伝によれば、遠敷郡根来村の白石に、唐人の姿をした二神があらわれました。八人の眷属を従え、白馬に跨り、白雲に乗って天降られたと申します。そのとき、二羽の鵜が迎えました。鵜の瀬という地名は、ここから起こったものでございます。

二神はそののち、永く鎮まる地を求めて若狭の国を巡られ、霊亀元年九月十日に竜前へ、六年ののちの養老五年二月十日に遠敷へ遷られました。上社の若狭彦神社と、下社の若狭姫神社でございます。

ここで、鵜が二度あらわれますことに気づきます。

若狭では、二羽の鵜が神を迎えて、この淵の名となりました。奈良では、二月堂のかたわらの岩が割れ、黒白二羽の鵜が飛び立ち、その割れ目から水が湧いて若狭井となりました。水を送る側と、受ける側と。同じ二羽が、両方におります。

この社の境内は、椿の群生林でございます。八百比丘尼は、巡り歩いた諸国に椿を植えたと伝えられます。日本遺産の解説も、この境内の椿と八百比丘尼の伝承とを並べて挙げております。

くわえてこの地は、東大寺の初代別当・良弁(ろうべん)僧正の生まれた土地とも伝えられております。若狭と東大寺を結ぶものは、水ばかりではございませんでした。

名水の国

環境省が昭和六十年に選びました名水百選に、福井からは三つが入っております。若狭町の瓜割(うりわり)の滝、大野市の御清水(おしょうず)、そして小浜市の鵜の瀬でございます。三つのうち二つが若狭、しかもそのひとつがお水送りの淵でございます。

平成二十年の平成の名水百選には、小浜市の雲城水(うんじょうすい)、大野市の本願清水、若狭町の熊川宿前川が加わりました。熊川宿は、鯖街道の宿場でございます。

瓜割の滝は、夏に瓜を浸けておくと割れるほどに冷たいことから、その名がついたと申します。平成二十七年に環境省が行いました名水百選選抜総選挙では、おいしさが素晴らしい名水の部門で、この「わかさ瓜割の水」が全国第二位に挙げられました。

三つの川

もっとも、これらは同じ川の水ではございません。

鵜の瀬の遠敷川と、瓜割の滝は、いずれも北川の水系でございます。当宮のございます名田庄を流れる南川は、これとは別の水系で、小浜の城下のあたりで堰堤を挟んで隣り合い、それぞれに小浜湾へ注いでおります。

それでも、若狭の山に降った雨が地に潜り、幾年かを経てまた湧き出すという点では、どの水も同じでございます。この国は、山が水を蓄える器でございました。

都へ塩を運び、鯖を運び、そして水まで送った国でございます。京と若狭を結ぶ道が、なぜあれほど古くから通っていたのか。運ぶものが、それだけあったということでございます。