みつむねの
皇子
みつむねの皇子
名田庄の奥に、挙原(あげはら)という土地がございます。南川の支流、久田川をさかのぼりきったところでございます。
その山中に、石を積んだ塚が残っております。人の頭ほどの自然石を積み上げた、二間半ばかり四方、高さ一メートルほどの方形で、中ほどに五輪塔が据えられております。
村の人々は、春と秋の二度、この塚の前に集まってまいりました。旧暦の三月二十一日と七月二十一日でございます。餅を供え、手を合わせ、こう称えて拝んだと申します。
みつむねの皇子さま。
この呼び名が、どこから来たものか。『古事記』に、ひとつ思い当たる一行がございます。
第十七代・履中天皇の御子に、市辺之忍歯王(いちべのおしはのみこ)と申す方がおられました。その御名について、記はこう記しております。
御歯の先が三つに分かれておられた。それゆえ「押歯」の御名を負われたのだと申します。みつむねとは、この三つ叉の御歯の記憶ではなかろうかと思われます。
この皇子は、非業の最期を遂げられました。従兄弟にあたる大長谷王(おおはつせのみこ、のちの雄略天皇)が、猪鹿の多い野があると偽って狩りに誘い出し、朝まだ日の昇らぬうちに矢を放って射落としたのでございます。記はその野を「淡海の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)」と記しております。
御子の意祁王・袁祁王のお二方は、この乱を聞いて逃げ隠れられました。丹波を経て播磨に身を潜め、長く名を伏せて過ごされます。やがて世が改まり、弟君の袁祁王が位に即かれました。顕宗天皇でございます。
天皇は、父君の御骨を求められました。そのとき、ひとりの老いた媼(おうな)が参り出て申し上げます。
三つ叉の御歯を目印に、御骨は掘り出されました。天皇はこの媼に置目(おきめ)の名を賜り、宮の近くに住まわせて、鐸(すず)を大殿の戸に懸け、召すたびにこれを鳴らされたと申します。
そして記は、こう続けます。御骨は蚊屋野の東山に葬られ、韓帒(からふくろ)の子らに、その陵を守らせた、と。韓帒とは、猪鹿が多いと申し出て、皇子を狩りに誘い出したその人でございます。
さて、この塚のことでございます。
本居宣長は『古事記伝』の巻四十三に、この一帯を書き留めております。近江と若狭の境を越えるあたりに久多谷があり、村々を久多荘と呼ぶこと。若狭国遠敷郡に蚊屋野があること。ここは山城・近江・若狭・丹波の四つの国の境が近く寄り合う地であること。そして、その蚊屋野に「塚二ありて、御子塚と云」うこと。
宣長は、こう記します。
けれども、筆はそこで止まりませんでした。ほかの候補の地を並べたうえで、宣長はこう結んでおります。
三十五年をかけて『古事記』を読み解いた人が、この塚の前で、決めずに筆を置いたのでございます。
記に「久多綿」とある、その久多を、宣長はこの地に求めました。名田庄は、平成の合併までは遠敷郡でございました。
書物を読んで名付けたのではない呼び名が、村に残っておりました。「みつむねの皇子さま」と、年に二度、餅を供えて拝んできた人々がおられました。
昭和四十一年、この谷に日本一の揚水発電所の計画が起こりました。やがて挙原の家々は、みな山を下りてまいりました。いまは人の住まぬ土地でございます。
それでも塚には、花が供えられていると申します。
陵を守れと記されてから、千五百年でございます。人は山を下りました。花は、絶えておりません。