背景

京と若狭を
結ぶ道

京と若狭を結ぶ道

当宮の前を、国道百六十二号が通っております。京の西大路五条にはじまり、山を越えて若狭に入り、敦賀に至る百四十七キロの道でございます。京から小浜までのあいだを周山街道と呼び、また鯖街道の一つにも数えられてまいりました。若狭の海で獲れた魚を京の都へ運んだ道でございます。

この道は、当宮の由緒と分かちがたく結ばれております。天平八年(七三六年)、聖武天皇は若狭国名田庄を泰山府君祭料の知行地とお定めになりました。北は、太一のまします最も尊き方位とされるゆえでございます。都から見て北にあたるこの地は、そのときより祭祀の地でございました。

この道を、都へ向かって運ばれたものがございます。塩でございます。

若狭は、塩の国でございました。平城宮と平城京の跡から出た若狭の荷札木簡は九十余点を数え、そのうち調と明記されたものは、ことごとく塩でございます。一人の納める量は三斗と定められておりました。国を挙げて塩を納めた国は、若狭のほかにございません。海の幸をもって都の食を支えた国を御食国(みけつくに)と申しますが、若狭がそこに数えられるのは、この実によります。

塩の由緒は、若狭湾の東端、角鹿にございます。『日本書紀』武烈天皇即位前紀に、平群真鳥大臣が誅されるにあたり、諸国の海の塩をことごとく詛(のろ)うたと記されております。ただ一つ、角鹿の海の塩を忘れて詛わなかった。それゆえ角鹿の塩は天皇の召し上がるものとなり、余の海の塩は忌まれることとなったと申します。角鹿は、今の敦賀でございます。

その角鹿には、食を司る神がまします。『古事記』に、建内宿禰命が太子を率い、禊のために近江と若狭を経て角鹿へ至り、仮宮を造って留まられたとございます。その地にまします伊奢沙和気大神が夜の夢に現れ、御子と御名を易えたいと願われました。明くる朝、浜へ出てみますと、鼻を傷つけられた入鹿魚(いるか)が浦一面に寄っておりました。御子は「我に御食(みけ)の魚を給うた」と仰せられ、その神を御食津大神と称えられたと申します。今の気比大神でございます。

気比の神が降り立たれたその地を、土公(どこう)と申します。土公とは、陰陽道における神の御名でございます。社伝によれば、大宝二年(七〇二年)に社殿の営まれる以前は、この土公を神籬(ひもろぎ)として祭祀が行われておりました。社殿の成ったのちも古殿地として護られ、今なお聖別されて、調べの手が入っておりません。最澄と空海も、この地で七日七夜の祈祷を修めたと伝えられます。

この道の終点は、陰陽道の聖地でございます。

応仁の乱の兵火を逃れ、御神体はこの道を下って若狭名田庄へ遷されました。慶長六年(一六〇一年)に土御門久脩卿が京へ戻られるまで、百余年のあいだ、祭祀の座はこの地にございました。土御門家は、この道を度々渡っておりました。

道は今も、おおむね同じ筋を通っております。高雄の杉山を過ぎ、京北の里を抜け、美山の茅葺きの家々を右手に見て、峠をいくつか越えたところで若狭に入ります。急ぐための道ではございません。車の窓からでも、五百年前と変わらぬ山の形が見えるはずでございます。

その道、山間に当宮は鎮まっております。