古代中国では、あらゆる星が北極星を中心に巡ることから、全宇宙の根源であり、全てを司る星として、最高神として崇拝されるようになりました。北極星は、太一と呼ばれ、天帝の化現した姿と考えられています。(太一は、伊勢神宮の式年遷宮の際、神宮のシンボルマークにもなっています。)
土御門家の当主は、後陽成天皇以降、孝明天皇の御世に至るまで、絶えることなく、必ず即位のたびごとに天皇の即位儀礼としての一代一度だけ行う「天曹地府祭」を執り行ってきました。(徳川将軍家においても、これにならって、将軍宣下のたびごとに、新将軍の一代一度の「天曹地府祭」が執行されました。)
天曹とは、天帝及びその官吏である天上の星の神霊をさし(紫微星(北極星)を天帝とし、それを中心として回るすべての星を、天帝の官吏になぞらえている。)、地府とは、地祇(国津神)の家司のことであり、「泰山府君」及びその家令・家扶である司命・司籍・司禄などを地府といいます。したがって天曹地府祭とは、天帝(太一)並びに泰山府君及びその家令・家扶を祀る祭儀でした。
そして、「泰山府君」は、陰陽道の主祭神であり、森羅万象、人の命をも司る神として、ここ天社宮にてお祀りしております。(「泰山府君」は、牛頭天王、素戔嗚、七福神の福禄寿、本地垂迹說では地蔵菩薩、冥府の神「閻魔大王」などとも同一視されています。)
土御門家の祖にあたる陰陽博士・安倍晴明公は特に篤く信仰され、天皇などに対する厄除、健康長寿を祈祷する国家の秘祭として「泰山府君祭」を執り行っていました。
泰山府君が、この名田庄の地に奉祀されたのは、吉備真備が唐より帰国し、安倍仲麻呂から託された「大行暦」を朝廷に献上した翌年にあたる天平八年(七三六年) 12月13日付けの「若狭國名田庄を泰山府君祭料知行地とする」という聖武天皇の御倫旨に始まります。
江戸時代初期に、第112代天皇である霊元天皇から、泰山府君社に「天社宮」の御神号を賜りました。「天社宮」は、ここ名田庄の天社宮一社のみです。
泰山府君を主神とする陰陽道は、華道、茶道や能楽、田楽、歌舞伎、三河万歳といった伝統文化だけでなく、日本人の日常の風習、習慣、年中行事に与えた影響はとても大きく、現在でも、干支や曜日、神社やお寺で戴くお守り、まじない、山開き、還暦、お屠蘇、お中元、京都祇園のオケラ参り、荒神さん、桃太郎、 浦島太郎、かぐや姫などの物語から、節分、端午の節供、ひな祭り、地鎮祭など、私達日本人の日常生活の一部として、知らず知らずのうちに、浸透し伝承されています。
『古事記』や『日本書記』でも陰陽五行説が説いてあると言われ、今でも伊勢神宮や宮中でも陰陽道の祭儀が執り行われています。
泰山府君大神(太一信仰)は、宇宙の根源(太一)から陰陽が生まれ、そこから派生した森羅万象を司る、陰陽和合・調律の神様であり、陰陽道の主祭神になります。人類を含む動植物の生命、運命の編集を司り、災禍を除き、福禄寿を授け賜うといわれています。
泰山府君大神は平安時代から明治時代初期にかけて、安倍晴明公をはじめ、歴代の天皇や将軍から篤く信仰されていました。
平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明公は、この泰山府君大神へのご祈祷祭祀である「泰山府君祭」を得意とし、当時の天皇や名だたる貴族達の健康長寿や出世をご祈願し、数々の効験があったと伝えられています。
戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康や伊達政宗が泰山府君大神を信仰しており、徳川家康によって、土御門家は「陰陽道宗家」の認可を受けました。
御由緒
今から約1300年前、奈良時代の遣唐使、阿倍仲麻呂公は、中国で泰山府君大神の教伝と陰陽道家の法を学んでいました。彼は親友である吉備真備公にこれらの知識と泰山府君大神の御神璽を託し、天平七年(735年)、日本に帰国する吉備真備公によって、日本に泰山府君大神の信仰が伝えられました。
吉備真備公が帰国した翌年の天平八年(736年)12月13日、聖武天皇は若狭国名田庄を泰山府君祭料知行地と定めました。この名田庄は、古くから泰山府君大神と深い縁のある地とされています。
当初は吉備家によって守護奉斎されていた泰山府君大神ですが、阿倍仲麻呂公の意思に従い、やがて安倍(土御門)家に移されました。以後、代々の安倍(土御門)家では「大元尊神・泰山府君大神」として奉斎されるようになりました。
平安時代、安倍晴明公は特にこの泰山府君大神を陰陽道の主祭神として篤く信仰しており、京都堀川一条葭屋町(現在の安倍晴明神社境内)にある安倍晴明公の邸内に、荘厳な社殿を建立しました。
しかし、応仁正中の乱で社殿が焼失し、戦火を逃れた御神璽は、若狭の神領地から京都に帰洛した土御門久脩卿によって、山城国旧葛野京、梅小路唐橋(現京都市下京区千本七条下ル唐橋町)に新たな社殿が建設され、そこに奉斎されることになりました。
その後、御陽成天皇から孝明天皇に至る十四代、将軍徳川家康から家茂公に至る十四代の大祭が行われました。
この泰山府君大神を奉斎する社殿はこの京都の土御門家邸にのみ存在し、「日本一社」と称され、江戸時代の天和二年(1682年)には、霊元天皇から「天社宮」の称号を賜りました。
第二次世界大戦終戦の翌年、昭和二十一年(1946年)には、文部大臣の認証を受け、土御門範忠元子爵と土御門神道本庁庁長藤田義男(安倍家の親縁でもある藤田家三十七代目)によって、安倍(土御門)家で代々奉斎されてきた「元津之社御本璽」が京都市山科に仮安置された後、古くから泰山府君大神と所縁のある、ここ名田庄に遷宮されました。
天社土御門神道本庁にお祀りしている神様は、陰陽道宗家として、約1300年前の阿倍仲麻呂公から安倍晴明公を含む、代々、土御門(安倍)家邸内で大切に奉斎されてきた日本一社の泰山府君大神となります。
社号
天社土御門神道本庁の社号は「天社宮」である。霊元天皇の天和二年において、「天社宮」の社号が勅宣により冠せられました。
御社格
天社土御門神道本庁の御社格は非常に高く、延喜式に記された六十余州の神々の中では天照皇大神宮、春日大明神に次ぐ第三の位に位置付けられています。
天社宮 由緒
天社宮の歴史は、はるか平安朝の時代にまで遡ります。かつて京都堀川一条葭屋町、安倍晴明公の邸内(現在の安倍晴明神社境内)に鎮座していた荘厳なる天社宮は、応仁の乱で京都が戦火に包まれた際に焼失いたしました。幸いにも御神体は難を逃れ、他所に安置されることとなりました。
その後、南北朝時代の長享二年(1488年)、安倍(土御門)有宣卿が、平安京の北西(神門)に位置し、天平八年(736年)には、聖武天皇の御綸旨により陰陽道の神々の祭料地として定められていた聖地、若狭名田庄に移られました。ここに居城を構え、天社宮を再建し、遷宮奉斎いたしました。以来百年以上の長きにわたり、若狭名田庄は陰陽寮による国家の重要な祭祀が執り行われる、陰陽道の特別な地として崇められてまいりました。
慶長五年(1600年)、安倍久脩卿が勅命を拝し、若狭より上洛。現在の京都市下京区七条下ル唐橋の地に天社宮を再建いたしました。この新たな天社宮では、歴代天皇、将軍の御即位に際し、必ず御祈願祭が執り行われ、御陽成天皇から孝明天皇に至る十四代、徳川家康公から家茂公に至る十四代将軍の大祭が厳かに執り行われました。
天社土御門神道の天社宮のみで祀ることを許された北斗七星の神、泰山府君大神(太一神)は、朝廷より篤く崇敬され、二十年ごとに行われる御内侍所賢所の御造営替の折には、再三にわたり土御門家へ仮殿が下賜されるという稀有な栄誉に浴しました。
しかしながら、明治維新に伴う廃仏毀釈の余波を受け、天社宮は取り壊されることとなり、天社土御門神道も神仏分離政策の中で一時中絶の危機に瀕しました。土御門家も例外ではなく、京都の広大な天文台や邸宅もすべて失われましたが、第二次世界大戦終戦の翌年までの七十八年の歳月、代々の土御門家によって御神体は篤く奉斎され続けました。
そして第二次世界大戦終戦の翌年、若狭より土御門家の縁戚である藤田義男公が上京し、同族や同門と共に土御門神道同門会を結成。天社宮の再興に尽力され、出羽三山の方々を筆頭に、多くの社寺様のお力添えを賜り、昭和二十一年(1946年)に文部大臣の認証を受けるに至りました。土御門範忠元子爵と土御門神道本庁庁長藤田義男(安倍家の親縁でもある藤田家三十七代目)によって、御神体は一旦京都に仮安置された後、陰陽道の聖地である、ここ若狭名田庄に遷宮されるに至りました。
かくして、千年有余の歳月と、幾多の変遷を経てなお、天社宮は、多くの社寺様と共に、陰陽道の神々と神秘なる術理を護り伝えてまいります。