背景

御祭神

泰山府君大神

泰山府君大神(太一・泰一)

当宮の主祭神は、泰山府君大神(たいざんふくんおおかみ)でございます。古より太一(たいいつ)、また泰一の御名をもって仰がれてまいりました。八百万(やおよろず)の神々の始まりにまします大神でございます。

太一とは、天地の神々をも含め、万物の根源をあらわす尊き御名です。神道においては、陰陽・五行・日月星辰・四時の巡りのすべてがそこより生じる、根本の理として重んじられてきました。日本の神社仏閣に伝わる厄年もまた、この太一の巡りより定まるもの——古来「太一定分の厄年」と申します。

天にあっては、太一は、天の中心に在す北極星と、その周りを巡る北斗七星——この二つの星の動きとして顕れます。北極星は天の枢として万象の軸を定め、北斗七星はその柄を巡らせて四時を告げる。この二つながらの働きが、天における太一の御姿として仰がれてまいりました。

地にあっては、天と相通う泰山に在す御神こそ、泰山府君大神——太一そのものにあらせられます。泰山は中国において、最も尊ばれた霊山であり、東方を守る山、また死者の魂の帰り集う山として篤い信仰を受けてきた御山です。

古より、天命を受けた帝王のみが、この泰山の頂に壇を築いて天を祀り、麓の小山に地を祀ることを許されました。これを「封禅(ほうぜん)」と申します。『史記』は、神代より七十二家の君がこの山で天を祀ったと伝え、その中には黄帝や堯・舜の御名も見えます。史上でも、秦の始皇帝、漢の武帝をはじめ、歴代の天子がこの大礼を修めてまいりました。唐の玄宗皇帝もまた、開元十三年(725)、泰山に封禅を修め、この折、泰山の神に「天斉王」——天と斉(ひと)しき王——の号を奉っております。天と繋がる御山とその御神への崇敬は、かくも篤いものでございました。

当宮に伝わる由緒によれば、泰山府君大神——またの御名を大元尊神と申し上げます——の御神体は、今を去る千三百余年の昔、遣唐使として唐に渡られた阿倍仲麻呂公にまつわる霊験を機縁として、吉備真備公より賀茂家、安倍家へと受け継がれ、のちに土御門家に奉斎されることとなりました。

土御門家は、明治維新に至るまで陰陽道宗家・司天家として朝廷に仕え、泰山府君大神を奉斎して、歴代の天皇の御代の安泰と国家の安寧を祈る祭祀を修めてまいりました。あわせて、太一の神気を暦に配し、天の巡りを人の世に伝えることも、代々の大切な務めでございました。

この祭祀と暦法の伝統は、今日も当宮に脈々と受け継がれております。

土御門資料室

天社十二神(天神七代)

天地いまだ分かれざる時、ただ一つの神気がございました。神道では、この万物の根源たる神気を、太一と仰いでおります。この御名は、伊勢神宮の式年遷宮の折にも、旗に大書して掲げられます。

『日本書紀』に記される天地開闢のみぎり、天地が分かれ、高天原(たかまがはら)に神々が顕れたまいました。太一の神気は、まず陰と陽に分かれ、陰陽より木・火・土・金・水の五行が生じ、その御はたらきによって、この世界は形を成してまいりました。

この『日本書紀』の撰修を発意されたのは、天武天皇でございます。天皇は自ら天文遁甲を能くされ、占星台を建て、陰陽寮を置かれた、陰陽の道に深く通じた帝であられました。書紀がその筆の初めを、天地いまだ剖れず、陰陽分かれざる混沌より説き起こしておりますのも、故なきことではございません。日本の神々を陰陽五行の理をもって拝することは、書紀そのものに根ざした読み方でございます。

『日本書紀』は、その初めに顕れました国常立尊より、伊弉諾尊・伊弉冉尊に至る七代の神々を、天神七代と伝えます。また一書には、高天原に天御中主神・高皇産霊尊・神皇産霊尊の三神が生れましたことを伝えます。

天御中主神と国常立尊とは、同一の御神の二つの御名にして、すなわち太一・大元尊神にあらせられます。当宮では、この御神を高皇産霊尊・神皇産霊尊とともに一代目に仰ぎ、一代より六代までの十二柱の神々を、天社十二神と称え奉ります。

一代
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 太一・大元尊神
国常立尊(くにのとこたちのみこと) 太一・大元尊神
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 元気火陽神
神皇産霊尊(かみむすひのみこと) 元気水陰神

二代
国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 元気水徳神

三代
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと) 元気火徳神

四代
埿土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと) 元気木徳神

五代
大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫邊尊(おおとまべのみこと) 元気金徳神

六代
面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと) 元気土徳神

七代
伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 陽神・陰陽五行成就神
伊弉冉尊(いざなみのみこと) 陰神・陰陽五行成就神

七代目の伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神は、陰陽五行の御業を成就され、国生み・神生みをなされました。やがて天照大御神がお生まれになり、高天原を統べられることとなりました。

水徳・火徳の神が独神として、木徳・金徳・土徳の神が陰陽一対の神として生まれましたことは、『日本書紀』の伝える独化・偶生の神々の御姿でございます。

このような五行の御はたらきの一端は、旧暦十月——水の気に配される亥の月——に、八百万の神々が出雲に集われ、神議りをなされるという古伝にも、うかがうことができます。水は万物を蔵し、次なる生起を内に孕む気でございます。

日本の神々の御はたらきは、木・火・土・金・水の五行の巡りと離れたものではございません。神々は、天地を巡る神気をそれぞれの御徳として顕し、世を鎮め、縁を結び、時を巡らせ、万物を生かし養われるのでございます。

天社十二神は、太一の神気の顕れとして、その御心をこの世に伝え、世を鎮め、天地の調和を保たれる神々でございます。

鎮宅霊符尊神

鎮宅霊符尊神

鎮宅霊符尊神——正式には太上鎮宅霊符尊神(たじょうちんたくれいふそんじん)と申し上げます——は、太一の顕れたまう天の御中心、北極星の御許にあらせられ、北斗七星の巡りをもって九星を司る、北辰の大神でございます。陰陽道においては、泰山府君大神に次ぐ尊き御位の神として仰がれてまいりました。

その御姿は、玄武の上に立たれると伝えられております。天にありては北辰の仙神として天意を司り、地にありては鎮宅霊符の御名のままに、霊符をもって家宅を鎮め、人々を災厄より守護されます。

御由緒は、遙か上古の世に遡ります。土御門家文書によれば、当宮に奉斎する御神体は、推古天皇の御代——聖徳太子の時代より祀り継がれてきたと伝えられております。

また、占術を司る大神にもあらせられ、当宮の運勢暦は、その御姿を表紙に戴いております。それゆえ今日もなお、卜占の道に携わる多くの方々より、ひときわ篤い崇敬を寄せられております。

安倍晴明大神

安倍晴明公は、第八代・孝元天皇の御血脈に連なり、陰陽道の大成者として後世に名を遺された御方でございます。幼き頃より天賦の才をあらわされ、太一陰陽五行の理を究めて、天地陰陽の道を大成へと導かれました。

とりわけ、安倍家の御祖と伝わる遣唐使阿倍仲麻呂公ゆかりの泰山府君大神——すなわち太一との御縁を結ばれたことは、当宮の由緒においても誠に重き意味を持ちます。

晴明公の究められた陰陽の道と暦の道は、一週間をかたちづくる日月火水木金土の七曜のうちに、また正月や節分、端午の節句、七夕といった年中行事のうちに、今も人々の暮らしとともに息づいております。

当宮は、この晴明公の御神霊を安倍晴明大神と仰ぎ、篤くお祀り申し上げております。

若狭樟葉媛稲荷

晴明公の御母なる姫君を祀る、お稲荷さまでございます。

安倍晴明公の母は、和泉国信太の森の白狐であったと、古くより語り継がれてまいりました。正体を知られた御母は、幼い晴明公を残して森へ帰り、別れに、一首を残したと伝えられます。

 恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる
 信太の森の うらみ葛の葉

うらみは、恨み——去らねばならぬ身の嘆き。また裏見——裏の姿を、見においで、と。神霊となってなお、子を慕う母の心を今に伝える歌でございます。物語に葛の葉と語られるこの御母より、晴明公は人ならぬ霊性を受け継いだと伝えられ、のちにこの一首は、神詠とも仰がれてまいりました。

白狐は、稲荷大神の御眷属でございます。神縁もありて、その総本宮・伏見稲荷大社様の暦は、当宮が奉製しております。

人と契り、子をもうけた御縁により、子宝と、夫婦の和合を。晴明公に受け継がれし白狐の霊性により、霊力を授け、強めたまう。

この御母を、晴明公の後胤(こういん)・土御門家は、代々お祀りしております。

阿倍仲麻呂公

仲麻呂公は、大彦命を祖とする阿倍氏、中務大輔・阿倍船守の子。養老元年(717)、二十歳に満たぬ身で遣唐使の留学生に選ばれ、唐へ渡りました。同じ船団には、吉備真備公がおられました。『続日本紀』によれば一行は旅立ちに先立ち、春日の御蓋山のふもとで、航海の無事を祈っております。

唐では朝衡(ちょうこう)と名乗り、科挙に及第したと伝えられ、玄宗皇帝に仕えて秘書監・安南都護などの顕官に至りました。『旧唐書』は「中国の風を慕い、留まりて去らず」と記し、詩人の王維、李白がその友でございました。公が仕えた玄宗皇帝は、泰山に封禅を修めた帝でもございました。

当宮に伝わる由緒によれば——公はこの唐土において、霊山・泰山より、天の最高神・大元尊神、すなわち太一の御神体を賜り、皇室と安倍家に伝える大命とともに、そのすべてを吉備真備公に託されました。

天平勝宝五年(753)、公はようやく帰国の船に乗ります。その途上、明州の海辺の送別の宴で詠まれたと伝えられるのが、この一首でございます。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
 三笠の山に 出でし月かも

百人一首の七番として誰もが知るこの歌の、三笠の山とは——三十六年前、旅立ちの日に一行が無事を祈った、あの春日の山でございます。

しかし船は嵐に流され、安南に漂着。同じ船団の第二船だけが日本へ着き——乗っていたのは、鑑真和上でございます。難破の報に、李白は「明月帰らず、碧海に沈む」と友を悼む詩を残しました。公は生きて長安へ戻りましたが、帰る機会はふたたび訪れず、宝亀元年(770)、長安に没しました。在唐五十三年でございました。

後の世の人々は、公が鬼神となってなお、唐で真備公を助けたと語り継ぎました。

公は、帰りませんでした。けれども、公の託したものは帰りました。御神体は真備公の手で海を渡り、賀茂家に護られ、安倍保名公・晴明公の安倍家——のちの土御門家へと受け継がれ、千三百年ののち、いまも若狭名田庄の当宮に鎮まっております。

学びひとつで異国の帝に仕えきった御方を、当宮は、学業の神様としてお祀りしております。学びの道を行く人、試みに挑む人に、お力を授けてくださいます。

そして、公が旅立ちに祈り、望郷の歌に詠んだ三笠の山——その麓の社、春日大社様の暦もまた、当宮が奉製しております。一千年を超える、神縁そのものでございます。

暦と神々の繋がり