背景

岩の鼻の
九千年

岩の鼻の九千年

当宮のございます納田終から南川を下ってまいりますと、名田庄三重(みえ)に出ます。その川の左岸、地元で「岩の鼻」と呼ばれてきた一角に、北陸で最も古い集落の跡がございます。

川床からの高さは数メートル。日当りがよく、水はけもよい土地でございます。

台風が掘り出した

この遺跡は、人が探し当てたものではございません。

昭和二十八年九月二十五日、十三号台風によって南川が氾濫いたしました。岩の鼻の表土が流れ去り、あとに土器や石器が大量に散らばったのでございます。地元の城谷義視(しろたによしみ)氏がこれを丹念に拾い集められました。

昭和四十四年、若狭考古学研究会による調査が行われます。さらに昭和六十年から翌年にかけて、南川の改修工事に先立ち、福井県教育委員会が九千八百平方メートルにわたる発掘を実施いたしました。

およそ九千年前の住まい

掘り出されましたのは、縄文早期の竪穴住居の跡、合わせて六軒でございました。地面に浅く円い穴を掘っただけの、慎ましい住まいでございます。五軒は直径二メートル半から五メートルほど。そのなかに一軒だけ、直径七メートルというひときわ大きな家がございました。

年代の手がかりは、土器でございます。ともに出た土器は神宮寺・大川式と呼ばれるもので、縄文早期の押型文土器のなかでも古い型に属します。年代はおよそ九千年前でございます。

『福井県史』は、この集落についてこう記しております。

川に生活の拠点を置いた縄文人のムラが明らかにされ、北陸地方でも最古の集落である。

石鏃(せきぞく)、石錐(いしきり)、磨石(すりいし)、そして魚を捕る網の錘である石錘(せきすい)。玉のかたちの耳飾りも出ております。川で魚を捕り、山で獣を追い、木の実をすりつぶして暮らした人々でございました。

住み継がれた土地

岩の鼻から出た土器は、早期のものだけではございません。前期、中期、後期と、時代を追って重なっております。中期の末には、この地は名田庄でも指折りの規模の集落になっていたと申します。

九千年前にこの岸へ人が下り、それきり途切れることなく、この谷には人が住んでまいりました。一万年に近い年月でございます。

途切れなかったのは、この土地の自然がとても豊かだからでございましょう。

南川は天然の鮎がのぼる川でございます。釣り人の推挙による「天然鮎がのぼる百名川」にも、福井からは九頭竜川・北川とならんで、この南川が挙がっております。六月の半ばに解禁となりますと、県の内外から釣人が入ります。この里に鮎を刺身で出す宿がございますのは、獲れたその日に捌けるからでございます。

その南川は、丹波との国境、頭巾山(ときんざん)の麓の尼来峠のあたりに発します。当宮の裏手の谷から流れ出て、名田庄を貫き、小浜で海に入る川でございます。冷たい水と、山あいゆえの寒暖の差。名田庄の米が旨いと申しますのは、この二つによるものでございます。

山には猪と鹿がおります。秋には松茸も出ます。九千年前の人が石鏃で獣を追い、網の錘で魚を捕り、磨石で木の実を割っていたのと、いまこの里の膳にのぼるものとは、地続きでございます。

ひとところに人が住み続けるには、理由がございます。ここには、それがございました。