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土御門資料室

土御門資料室

皇室ならびに将軍家の特別な信仰に関わる領域においては、陰陽道の思想とその足跡が、土御門家文書のほか、若狭藩築城(一八〇年前)の折に記された谷川家古文書、さらには旧家臣・旧歴代組等に伝わる諸資料にも散見されます。

当資料室で公開している資料は、宮内庁書陵部より下賜された史料を基盤とし、あわせて土御門家に古来より伝来する文書・文献を礎として編纂されたものでございます。当宮の資料が陰陽道の神々の深淵をより深くご理解いただく一助となれば幸甚に存じます。

都状

都状とは、朝廷の陰陽寮において、代々陰陽頭(おんみょうのかみ)を務める
土御門家(司天監)によって執り行われる、天皇陰陽大祭祈願文(祝詞)を指します。

天皇御即位や将軍宣下時に執り行われる祭祀(天胄地府祭)において、
國家安泰、玉体安穏(天皇陛下の身体の健康)を祈願するほか、
災厄・天災地異が生じた折にも奉奏される大祭の祈願文であり、
天社宮に鎮座されます極めて御神格の高き陰陽道の神々へ捧げられる特別な祝詞でございます。


歴代天皇御即位
天胄地府祭都状


一〇七代
御陽成天皇
慶長六年正月朔日
天胄地府祭 (三年塞方犯祈願 )

一〇八代
後水尾天皇
慶長十八年十一月五日
天胄地府祭

一〇八代
後水尾天皇
慶長十八年十二月八日
天胄地府祭

一〇八代
後水尾天皇
元和四年十一月
天胄地府祭

一〇九代
明正天皇
寛永七年十二月十四日
天胄地府祭

一一〇代
後光明天皇
寛永廿年十月
天胄地府祭

一一一代
後西天皇
明歴二年二月十一日
天胄地府祭

一一二代
霊元天皇
延宝八年十月廿二日
天胄地府祭

一一二代
霊元天皇
元禄二年十二月四日
天胄地府祭

一一二代
霊元天皇
正徳五年十二月三日
天胄地府祭

一一三代
東山天皇
元禄元年十一月廿五日
天胄地府祭

一一四代
中御門天皇
正徳元年十月十二日
天胄地府祭

一一五代
櫻町天皇
元文元年十月廿二日
天胄地府祭

一一六代
桃園天皇
寛永元年十二月
天胄地府祭

一一七代
後櫻町天皇
宝暦十三年十二月廿四日
天胄地府祭

一一八代
後桃園天皇
明和八年五月廿四日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
安永十年正月丗日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
寛政二年十一月十五日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
寛政五年七月十七日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
寛政八年十二月十四日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
享和二年七月廿六日
天胄地府祭

一一九代
光格天皇
文化八年八月廿五日
天胄地府祭


徳川家代々将軍宣下
天胄地府祭都状


初代
徳川家康
慶長八年二月十二日
天胄地府祭

三代
徳川家光
寛永十年十一月十三日
天胄地府祭

三代
徳川家光
元和九年七月廿七日
天胄地府祭

四代
徳川家綱
慶安四年八月十八日
天胄地府祭

五代
徳川綱吉
延宝八年八月廿三日
天胄地府祭

六代
徳川家宣
宝永七年三月七日
天胄地府祭

七代
徳川家継
正徳三年九月廿三日
天胄地府祭

八代
徳川吉宗
享保二年二月六日
天胄地府祭

九代
徳川家重
延享三年四月廿三日
天胄地府祭

十一代
徳川家斉
天明七年九月十五日
天胄地府祭

十二代
徳川家慶
天保九年正月廿一日
天胄地府祭

勘文擇申

勘文とは「勘考した文書」を指し、擇申は「その解釈を慎んで申し上げる」という意義をもつものでございます。これは、陰陽頭をはじめとする天文博士・陰陽博士・暦博士らが天文観測や占考を通じて導き出した結果を、しかるべき形式で奏上することを意味するものでございます。奏上の様式には二つの形が存在し、通常の勘文擇申においては中務省(なかつかさしょう)の長官を経由して天皇へと上申されるのでございますが、密奏においては、陰陽頭が直接天皇に申し上げるという、より機密性の高い手続きを踏むのが特徴でございます。

この密奏は、国家の重大事に際して不可欠とされた極めて重要な儀礼であり、資格はきわめて厳格に限定されておりました。たとえ陰陽頭でございましても、少なくとも従三位以上の高位に叙され、かつ密奏に関する勅命を受けた者のみが、これを執り行うことを許されていたのでございます。その栄誉は、安倍(土御門)家に代々継承されてまいりました。

また、占考の内容は天皇や皇族の日常生活に深く関わる点でも注目に値いたします。たとえば、御髪上げの日時、御歯固めの日取り、別殿行幸の期日、婚儀の日程、宮中直日の選定、腹帯のタイミング、輿の製作開始日、御誕生の儀に伴う種々の雑事の日取り、湯殿の新設日、御大湯の日などが占考の対象とされてまいりました。さらに国家的儀礼では、伊勢神宮(内宮・外宮)の御遷宮や山口祭の日程、立柱や地曳祭、荒神祭、御神楽、将軍宣下の日時など、極めて重要な行事の期日が定められてきたのでございます。これらの撰考においては、安倍晴明公以来の陰陽道の占術が代々受け継がれ、吉凶や忌日の選定が行われてきたのでございます。

本稿に示すこれらの内容は、主として土御門家に伝わる文書や、分家筋にあたる倉橋家・谷川家の文書、そして久脩卿・泰重卿・晴雄卿らの綿密な日誌を参照して抜粋・整理したものでございます。

初代
徳川家康
慶長八年二月十二日
天胄地府祭

三代
徳川家光
寛永十年十一月十三日
天胄地府祭

三代
徳川家光
元和九年七月廿七日
天胄地府祭

四代
徳川家綱
慶安四年八月十八日
天胄地府祭

五代
徳川綱吉
延宝八年八月廿三日
天胄地府祭

六代
徳川家宣
宝永七年三月七日
天胄地府祭

陰陽寮と土御門所管の機構図

陰陽寮最高の長官で天文陰陽を象り、天文密奏を行い、暦を推し漏刻を測り、祈禱、禁厭、陰陽、 大小祭等を統轄する長官でもあり、一名「司天家」と称し土御門家が代々世襲して来た。 この「司天家」とは中国の司天官を模倣したもので、中国では敬天思想や帰天説、天命説から発して天譴 に対する概念が強くすべての神は天にありとして、皇帝が天を祀ること特に篤かった。又「天」を祀ること は皇帝の重大任務であり特権でもあるが、北京の天壇は年一度祀られた場所である。わが国では国情の関係 上この司天家は安倍(土御門)家に附与されていた。 陰陽頭が初めて史上に載ったのは、慶運三年学問僧として新羅に派遣された津守通首が同年帰朝、和銅七 年占術を良として従五位下を授けられたのが始めで、以来、 津守連通、安倍吉人、安倍大家、大津宿弥大補、 滋岳川人、弓削是雄、 加茂忠行、同保憲、安倍晴明に至って天文博士、陰陽博士、 大膳大夫、左京大夫、穀 倉院別当、主計頭幡磨守を兼職していよいよ斯道発展し、それ以来安倍家が世襲して五十七代に及んだ。