
土御門資料室
土御門資料室について
日本の歴史の中で、陰陽道(おんみょうどう)は、人々の暮らしや、天皇や将軍など特別な地位の人たちのお祈りや儀式に重要な役割を果たしてきました。その陰陽道に関する記録は、土御門家に古くから残されている文書をはじめ、若狭藩(現在の福井県周辺)が約180年前に築城した時に残した谷川家の古文書や、昔の家臣たちが受け継いできたさまざまな資料の中にも見つけることができます。
この資料室では、宮内庁書陵部(皇室関係の資料を管理する部署)から特別に下賜された貴重な史料を中心に、土御門家に代々受け継がれてきた文書や書籍をもとに編集しています。これらの資料が皆さんの調べものや研究のお役に立てば幸いです。
「都状(とじょう)」について
都状とは、古くから朝廷に設置されていた陰陽寮(おんようりょう)で、陰陽道のトップである陰陽頭(おんようのかみ)を代々務めてきた土御門家が作成した特別な祈願文(祝詞・のりと)です。
天皇陛下が即位される時や将軍が任命される時に行われる重要な祭祀(天胄地府祭・てんちゅうちふさい)では、国の安定や天皇陛下の健康を祈願しました。また、大きな災害や問題が起きた時にも、この祝詞を神々に奉げ、人々を守っていただけるよう祈りを捧げました。
この祝詞は特に泰山府君大神(たいざんふくんおおかみ)を中心に、星々の神々に捧げられる、特別な祈りの言葉として知られています。
歴代天皇御即位
天胄地府祭都状
徳川家代々将軍宣下
天胄地府祭都状
勘文擇申(かんもんたくしん)について
「勘文擇申」とは、「よく考えてまとめた文書」を「慎重に申し上げる」という意味の言葉です。昔の日本では、陰陽頭(おんようのかみ)を中心とする天文博士や陰陽博士、暦博士たちが天体の動きを観察したり、占いを行った結果を天皇陛下に報告しました。
報告の方法には二つの種類がありました。一つは、普通の勘文擇申で、中務省(なかつかさしょう)という役所の長官を通じて天皇に伝えられるものでした。もう一つは「密奏(みっそう)」という方法で、これは陰陽頭が直接天皇に申し上げる特別で秘密の方法でした。
この密奏は、国家にとって非常に重要な事柄を伝える時だけに許される特別な儀式で、陰陽頭の中でも特に高い地位(従三位以上)で、かつ天皇から特別な許可を受けた者だけが行うことができました。この役目は代々安倍家(土御門家)に引き継がれてきました。
また、占いの内容は天皇や皇族の日々の生活に密接に関わる重要なものでした。例えば、髪を結い上げる日や歯固めの儀式、別殿(べつでん)へ行かれる日の選定、結婚式の日取り、宮中での特別な日の決定、お子様がお生まれになる前後の様々な儀式の日取りなどが占われました。
さらに国家的な行事としては、伊勢神宮の式年遷宮((しきねんせんぐう)建物を新しくする儀式)や山口祭、東大寺や東寺、東福寺などのお寺での棟上げや重要な祭典の日程など、さまざまな大切な日の選定が行われました。これらは、陰陽道の理論に基づいて、吉日や注意すべき日が決められてきました。
こちらでご紹介している内容は、主に土御門家やその分家である倉橋家、谷川家に伝わる資料や、久脩卿(ひさながきょう)、泰重卿(やすしげきょう)、晴雄卿(はるおきょう)などが残した日誌をもとにまとめています。
伊勢太神宮両宮公卿古文書について
元文(げんぶん)五年(1740年)二月十七日に記された、伊勢神宮の祭りや儀式についてまとめられた貴重な文献です。
陰陽寮(おんようりょう)と土御門家の役割について
明治維新までの日本には、朝廷に「陰陽寮(うらのつかさ)」という役所がありました。その最高責任者である陰陽頭(おんようのかみ)は、天文観測や暦の作成、時間の管理、さまざまな祈祷(きとう)やお祭りなどをまとめる役割を担っていました。陰陽頭は別名「司天監(してんかん)」とも呼ばれ、この地位は土御門家(つちみかどけ)が代々引き継いでまいりました。
歴史的に陰陽頭が初めて登場したのは、奈良時代の慶雲(けいうん)三年(706年)に新羅(現在の韓国)へ学問を学びに行き、帰国後に占術で功績を認められた津守通首(つもりのみちおびと)が最初とされています。その後、津守連通(つもりのむらじみち)や安倍吉人(あべのよしひと)、安倍晴明(あべのせいめい)など、多くの人々が天文博士や陰陽博士といった役職を務めながら陰陽道を発展させてきました。それ以来、安倍家が陰陽頭の地位を引き継ぎ、現在まで五十七代にわたり続いています。
