背景

天社宮
由緒

天社土御門神道本庁の由緒と御神徳

天社宮 由緒

     

社号

第百十二代・霊元天皇の御代、天和二年(1682年)の佳日に、畏き勅宣を拝し、「天社宮」の尊称を賜りし由緒にございます。

社格

延喜式の古き記録には、各神社に勅許による神階が定められし由緒が詳らかに示されております。ことに、若狭の加茂神社に伝わる土御門家所蔵「谷川文書」のうち、「天神地祇」と題された奥深き古書には、延喜式に記された六十余州の三社ならびに、その他の神々の位階が綴られております。

ここに恭しくその一節を引き奉り申し上げますと、

第一 天照皇大神宮
第二 春日大明神
第三 天社宮泰山府君

これに続き、大日本国六十余州の一宮が列挙され、さらに五畿内五カ国の神社として、

山城国 加茂大明神
大和国 三輪大明神
河内国 平岡大明神
和泉国 大鳥大明神
摂津国 住吉大明神


と記されております。
斯くのごとく、天社宮泰山府君は天照皇大神宮、春日大明神に次ぐ第三位を占むる尊き神格を有することが、この古き記録により明らかに示されており、当宮の高貴なる格式を物語っております。

天社宮 由緒

天社宮の悠久にして尊厳なる歴史は、遙か平安朝の頃にまで淵源を遡り、誠に由緒深きものでございます。

古の都・京の堀川一条葭屋町にて、大陰陽師・安倍晴明公の邸内に鎮座ましましておりました天社宮は、不幸にも応仁の乱の戦火を被り、社殿が焼亡の憂き目に遭いました。されど神慮の深き御加護により、御神体は難を逃れ、他所へと遷されるという奇しき神助を賜りました。

その後、南北朝の時代、長享二年(1488年)に至り、安倍(土御門)有宣卿が平安京の北西“神門”に位置する若狭名田庄へ神霊をお遷し申し上げます。正和六年(1317年)に第九十五代・花園天皇の御綸旨により、泰山府君大神(太一)の祭料地と定められし由緒正しき聖域に居城を構え、天社宮を再興し、厳粛なる遷宮の儀を執り行いました。

以後、百余年にわたり、若狭名田庄は陰陽寮による国家祭祀が行われる、太一信仰の特別なる聖地として深き崇敬を集めるに至ったのでございます。

時は慶長五年(1600年)、安倍久脩卿が勅命を拝し、若狭より再び上洛。京都市下京区七条下ル唐橋の地において、あらためて天社宮を再建いたしました。翌年には、徳川家康公より陰陽道宗家と仰せ付けられ、その後、歴代天皇並びに歴代将軍の御即位に際しましては、必ずや御祈願祭を斎行し、御陽成天皇より孝明天皇に至る十四代、また徳川家康公より家茂公に及ぶ十四代将軍の大祭が天社宮にて執り行われました。

天社宮にのみ斎くことを許されし北斗七星の神、泰山府君大神(太一)は、朝廷より篤く崇敬され、二十年ごとに行われる御内侍所賢所の御造営替の折には、幾度にもわたり土御門家へ仮殿が下賜されるという、希有なる光栄に浴してまいりました。

しかしながら、明治維新期の天社禁止令、廃仏毀釈の激流に巻き込まれ、天社宮は取り壊しの憂き目を見、土御門家もまた京都の広大なる天文台や邸宅をすべて失うに至りました。それでもなお、第二次世界大戦終結の翌年に及ぶまで七十八年の長き間、代々の土御門家によって御神体は篤く奉斎され続けたのでございます。

昭和十七年(1942年)四月には「土御門神道同門会」が結成され、当時の土御門子爵家当主・土御門熙光が総裁、土御門家の分家筋にあたる倉橋泰隆が会長となり、土御門神道復興の動きが本格的に始まりました。かの伊勢神宮大宮司を出された三室戸家が後ろ盾となり、復興を推し進めていたものの、昭和十九年(1944年)五月に土御門熙光が薨去されます。

その後、弟にあたる土御門範忠がその跡を継ぎ、昭和二十一年(1946年)五月二十一日、「土御門神道(天社土御門神道)」として再び立ち上がることと相成りました。そして同年、若狭名田庄の地より土御門家の血脈を継ぐ藤田義男(藤田家三十七代目)が上京し、同族や同門の人々と協力して天社宮の再興に尽力。こうした流れの中、昭和二十九年(1954年)一月十一日には、「宗教法人天社土御門神道本庁」として文部大臣の認証を拝受するに至ったのでございます。本部たる「天社土御門神道本庁」を設置し、その管長には土御門範忠が就任。あわせて代表理事 兼 庁長には藤田乾堂が任じられ、管長を補佐しつつ陰陽道の神秘と伝統を受け継ぐ体制が整えられたのでございます。







かくして、終戦直後の苦難の折にあっても、土御門家ならびに多くの同門の方々の篤き尽力により、御神体は一旦京都へ仮安置された後、陰陽道の聖地たるここ若狭名田庄へと改めて遷宮され、現在に至るまで脈々と尊き信仰が護り伝えられております。