天社宮由緒
天社宮 由緒
社号
第百十二代・霊元天皇の御代、天和二年(1682年)の佳日に、勅宣を拝し、「天社宮」の尊称を賜りました。
社格
延喜式の古い記録には、各神社に勅許による神階が定められた由緒が詳しく示されております。特に、若狭の加茂神社に伝わる土御門家所蔵「谷川文書」のうち、「天神地祇」と題された古書には、延喜式に記された六十余州の三社ならびに、その他の神々の位階が記されております。
その一節に、
第一 天照皇大神宮
第二 春日大明神
第三 天社宮泰山府君
と記され、これに続き、大日本国六十余州の一宮が列挙され、さらに五畿内五カ国の神社として、
山城国 加茂大明神
大和国 三輪大明神
河内国 平岡大明神
和泉国 大鳥大明神
摂津国 住吉大明神
と記されております。
天社宮 由緒
御神体の渡来
天社宮の悠久の歴史は、今を去ること千三百余年前、養老元年(七一七年)に遡ります。
遣唐使として唐に渡られた阿倍仲麻呂公は、異国の難関「科挙」に合格し、玄宗皇帝に仕えられました。
その卓越した才をもって皇帝の深い信任を得、比類なき恩寵を賜り、
中国における最も神聖なる霊山・泰山より、天の最高神・大元尊神(太一)の御神体を賜るという、
まことに稀有の栄誉に浴されたのでございます。
仲麻呂公は、修得せられた多くの秘法と御神体とを、皇室および安倍家に伝える大命を帯び、
同じく遣唐使であられた賀茂家の祖・吉備真備公にそのすべてを託されました。
若狭への鎮座
吉備真備公が帰朝された翌年、天平八年(七三六年)、
聖武天皇は平城京の北方にあたる若狭国名田庄を
「泰山府君祭料知行地」とお定めになりました。
北は太一(北斗七星)の鎮まる最も尊き方位とされるゆえでございます。
今に続く若狭から東大寺への「お水送り」は、
この北方の聖水を都へ奉る神事であり、
その神秘の理を今に伝えております。
御神体を託された賀茂家は、代々これを篤く奉護し、
やがて時を経て、仲麻呂公との契りは果たされ、
御神体は安倍晴明公の父君・安倍保名公へと伝えられました。
こうして尊き御神体は、ついに安倍家──のちの土御門家において奉斎され、
太一の御霊統は今に受け継がれております。
平安から戦国の動乱へ
平安の御代、京の堀川一条葭屋町にあった大陰陽師・安倍晴明公の邸内社にお祀りされておりましたが、応仁の乱の兵火により社殿は焼失いたしました。しかしながら、御神体は奇跡的に難を免れ、祭料地である若狭名田庄へと遷されました。
長享二年(1488年)、安倍家の後裔・土御門有宣卿は若狭名田庄に社殿を再興されました。
この地は、正和六年(1317年)に花園天皇より、
土御門家が太一の祭祀を司る聖地として定められており、
有宣卿はここに居城を築き、遷宮の儀を厳粛に執り行われました。
以後、若狭名田庄は国家祭祀の中心として百余年にわたり、
深い崇敬を集めるに至ったのでございます。
江戸時代の栄光
慶長五年(1600年)、安倍久脩卿は勅命により京都へ帰京し、下京の地に社殿を建立されました。
翌年、徳川家康公より陰陽道宗家の地位を賜り、
これ以降、天皇および将軍の御代替わりには、
その御代の安泰を祈る国家祭祀「天胄地府祭」が斎行されることとなりました。
御陽成天皇より孝明天皇に至る十四代の天皇、
家康公より家茂公に至る十四代の将軍の御代々において、
その大祭が当宮にて厳かに執り行われたのでございます。
また、宮中の賢所が二十年ごとに造営される折には、
しばしば旧殿が下賜されるという、他に類を見ない光栄にも浴しました。
明治の試練と信仰の継承
明治維新の変革は、天社宮に大きな試練をもたらしました。
明治三年閏十月十七日、明治政府により「天社神道禁止令」が発せられ、
陰陽師の存在そのものが禁じられるに至りました。
この勅命により社殿は取り壊され、
土御門家は京都の邸宅や天文台など、あらゆる祭祀の拠点を失うこととなりました。
それでもなお、御神体は代々の当主により七十八年の長きにわたり篤く奉護され、
太一大神への信仰は節句や暦、神事の中に息づき、
日本の文化と精神の深層に脈々と生き続けたのでございます。
昭和の再興
やがて復興の時が訪れます。
昭和十七年(1942年)、土御門子爵家当主・土御門熙光を総裁に「土御門神道同門会」が結成され、
元伊勢神宮大宮司であられた三室戸家より御後援を賜り、
京都を中心に多くの社寺様のご支援を仰ぎつつ、
天社宮再興の歩みが始まったのでございます。
熙光薨去ののち、その志は弟君・範忠卿に引き継がれます。
昭和二十一年(1946年)五月二十一日、
「天社土御門神道」として再興が果たされました。
同年、若狭より土御門家に代々仕えた藤田家三十七代目・藤田乾堂が上京し、
同族同門の人々と共に天社宮の復興に尽力されました。
昭和二十九年(1954年)一月十一日、
「宗教法人天社土御門神道本庁」として文部大臣の認証を受け、
本部を設置。管長に土御門範忠、代表兼庁長に藤田乾堂が就任し、
太一大神の祭祀を未来へと継ぐ体制が整えられたのでございます。
かくして、終戦直後の困難な時代にあっても、
土御門家ならびに同門諸氏の篤きご尽力、
ならびに京都を中心とした多くの社寺様のご支援を賜り、
御神体は一旦京都へ仮安置されたのち、
太一の聖地・若狭名田庄へと改めて遷宮されました。
そして現在に至るまで、この地において、
太一大神の尊き御神体は厳かにお祀り申し上げられ、
その信仰は、暦と共に、今も息づき続けているのでございます。