背景

年中行事

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星祭り

星祭り
星祭り 星祭り 星祭り

天社土御門神道の星祭りは、奈良時代に中国より伝来し、朝廷陰陽寮の泰山府君祭の中の「本命属星祭」として、陰陽寮の重要な祭祀行儀のひとつとなり、朝廷内で密やかに伝承され、平安時代中期頃からは、賀茂氏の手から土御門家再興の遠祖でもある陰陽博士安倍晴明の許に戻され、その祭祀は晴明により、さらにその秘儀が加味され、数千年余にわたる歴史と伝統のもと陰陽寮の重大祭祀行儀となったのです。

明治時代まで、歴代天皇家、皇族、貴族さらに歴代の鎌倉・徳川幕府将軍家のみに許された祭祀行儀でした。

この祭祀行儀は、全能神である陰陽道の主祭神・泰山府君大神を奉斎し、北極星をはじめとして、北斗七星など紫微宮に坐します宇宙の神々(太一)に祈りを捧げる北辰信仰でもあり、他では決して真似ることが許されぬものでした。

人間は、それぞれの生年月日により各人の本命星が異なります。それらは九つの神格化された星として、毎年自分の定位置から離れ、九方位を巡行し十年目にまた元の定位に戻ります。

この巡行中では、お互いに性情の異なった星との巡り合いなどにより、常に大小の相性・相克があり精神的・肉体的にも各自の魂魄(こんぱく)は多くの影響を受け、心身ともに遊離状態に陥り、思いがけぬ災害や病難等を招いてしまうことにもなるのです。

こうした有様を、宇宙の神々に祈り、神の恩恵を得て自分の魂魄を平静な本心に戻すことを帰魂といいます。

あらゆる災禍を免れ、本命星の帰魂をより旺盛にするのが、土御門神道の星祭り「本命属星祭」のご祈祷なのです。


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八朔祭

八朔祭 八朔祭 八朔祭

「名越之祓・八朔祭祈祷行儀」とは、往古から水無月の大祓とも呼ばれ、大晦日の大祓とともに朝廷や貴族の間で行われてきた陰陽寮の大切な祈祷の行儀でした。

自然界に「春・夏・秋・冬」の四季と呼ばれるそれぞれの異なった季節や、それをつなぎ合わす橋のような役目をする「土用」という季節の変わり目。特に梅雨という雨期を含め、大変な湿気を伴う六月、七月のこの時期は人間の肉体や精神状態にも、万物の生育にも悪影響を与えてしまうと言われています。六、七月 から盛夏、初秋にかけての季節の変わり目も、また万物に災厄などを与えてしまう時期でもあります。この災厄からすこしでも身を守るための祈祷を行う神事です。

日本人は昔から「心身の穢れ」を祓うことをとても大切にしてきました。 1年間の心身の大掃除ともいえる「大祓」。そしてそのちょうど1年の折り返しにあたる旧暦6月30日(8月1日)に行われる「名越の祓(なごしのはらえ)」では、半年間の罪や穢れを祓え清め、また新しく心機一転して残り半年を穏やかに、清らかな気持ちで過ごせるよう願う大切な神事でもあります。

名越の祓では、特徴的なふたつの行事が行われます。

【茅(ち)の輪くぐり】
境内に立てられた大きな輪をくぐる行事です。この輪をくぐることで厄災を祓い清めます。(下記参照)

【人形流し】
人形(ひとがた)と呼ばれる、人の形をした紙を使った行事です。この紙の人形は、自分の身代わりを意味し、川に流したり、かがり火で燃やしたりして厄を祓います。


元朝廷陰陽寮行儀
「名越祓・八朔祭祈祷
茅の輪くぐり行儀」

元朝廷陰陽寮行儀 元朝廷陰陽寮行儀 元朝廷陰陽寮行儀

「茅の輪くぐり」は、午頭天王(素戔嗚大神)が地方に旅をされたとき、急激な暴風雨に見舞われ巨旦将来、蘇民将来の兄弟に一夜の宿を請われたところ、裕福な生活の兄の巨旦将来は、宿を断ってしまいました。 しかし弟の蘇民将来はとても貧しい生活でしたが快く天王をお泊めして持てなしました。牛頭天王は非常喜ば れ「いつもこれを門口にかければ悪疫から守ってくれます」と、茅の輪を手渡して立ち去られました。その後 この地方に大変な疫病が広がり、兄の巨旦将来は疫病のため無くなってしまったのですが、蘇民将来の子孫だけが無事に難を逃れる事が出来たと。という故事により、今もこの「茅の輪くぐり」が伝承されてきたのです。

「八朔」は本来旧暦八月一日の事の別称です。この頃は自然界は、大切の作物の成長期にあたり、とかく害虫などによる被害や、間近に迫る二百十日、二百二十日などによる被害などを被らないように天の神々に祈る古代から続く農耕民族の切なる願いの日だったのです。

今、すべてが機械や薬品に依存し、神様や自然への感謝の気持ち、敬意がおろそかになりつつあります。新型コロナの異常のまん延や気象の異常な変化が多発する今、もう一度、人間の原点に立ち帰って見ることが大切だと考えております。

元朝廷陰陽寮行儀 元朝廷陰陽寮行儀