尼来峠と
八百比丘尼
尼来峠と八百比丘尼
当宮のございます納田終から、尼来谷(あまきだに)をさかのぼって南へ登りますと、丹波との国境の尾根に出ます。ここを尼来峠(あまきとうげ)と申します。越えれば、丹波は上林谷(かんばやしだに)の古和木(こわぎ)でございます。いまの綾部にあたります。
尼が来た峠、と書きます。その尼とは、八百比丘尼(やおびくに)のことでございます。
内尼公へ通う道
地元の伝えは、峠の名の由来をこう記しております。昔、小浜の八百比丘尼が、丹波は何鹿郡(いかるがぐん)奥上林村故屋岡の、内尼公(うちあまご)という寺へ、たびたび通ったことによる、と。
小浜から南川をさかのぼり、納田終から尼来谷を詰め、尾根を越えて古和木へ下る。それが尼の通い道でございました。
老いぬ身
八百比丘尼の話は、若狭に古くから伝わります。
高橋権太夫(たかはしごんだゆう)と申す商人の長者が、島でめずらしい肉を得て持ち帰り、それを娘に食べさせました。人魚の肉であったと申します。以来、娘は年を取らなくなりました。夫を看取り、子を看取り、里の人がみな世を去っても、娘の姿は変わりません。やがて娘は尼となり、諸国を巡って歩いたと伝えられます。八百年を生きたゆえに、八百比丘尼と呼ばれました。
年を取らぬということが、幸いであったのかどうか。八百比丘尼の話は日本の各地に伝わっておりますが、いずれも明るい話ではございません。老いぬ身は、老いてゆく者と共に暮らせません。比丘尼が諸国を巡り歩いたのは、ひとところに留まれなかったからだとも申します。
比丘尼は最後に若狭へ戻り、小浜の空印寺(くういんじ)の洞に入って、そのまま出てこられなかったと伝えられております。八百年を歩いて、生まれた土地に帰られたことになります。
父は道満か
この比丘尼の父について、もうひとつの伝えがございます。
江戸の中ごろ、百井塘雨(ももいとうう)の記した『笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)』は、八百姫明神(やおひめみょうじん)の縁起を引いて、こう記しております。比丘尼のもとの名は千代姫(ちよひめ)、その父は秦道満(はたのどうまん)である、と。
この道満を、蘆屋道満(あしやどうまん)と同じ人と見る説がございます。
蘆屋道満は、説話のうえで安倍晴明公の好敵手として語られてきた陰陽師でございます。播磨の民間陰陽師の出とも申します。晴明公と道満とを、光と影のように対に置く語り方は、後の世に整えられたものでございまして、そのまま史実とは申せません。秦道満と蘆屋道満が同じ人であるという証も、確かなものではございません。
それでも、この土地でこの伝えに出会いますと、思うところがございます。当宮に伝わりますのは晴明公の家でございます。その晴明公の名と並べて語られてきた道満の、娘と伝えられる尼が、当宮のすぐ裏の谷を登り、峠を越えて丹波へ通っていた。伝えのなかの話ではございますが、道は現にそこにございます。
いまの峠
いまは車の通う道が別にでき、この峠を歩く人はほとんどおりません。若狭の側の道は伐採で一度は失われ、のちにたどれるほどに戻されたと申します。丹波の側は植林に埋もれております。
それでも峠には、深くえぐられた道の跡が残り、地蔵が立っております。人を待つような顔をして立っている、と登られた方は書いておられます。
八百年を生きた尼が越えたと伝える峠に、いまは地蔵だけが残りました。年を取らぬ身と、風雨に削られてゆく石。並べてみますと、ものを言わぬのは石のほうでございます。