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暦想雑記

5月5日、本来は女の節句

現在、「こどもの日」と定めている五月五日も、以前は男の子の端午の節句として、江戸時代に五節句の中の一つに定められた。ところが、そのまた前は、この日は女性のための日だったのだ。

 

古代中国の晋の国の「拘朴子」という書物は、「子供たちは菖蒲(しょうぶ) 湯で体を洗い、新しく作った赤や青の着物をつけ、婦女子は菖蒲の根っ子でかんざしを作り、その先に寿や福の字を書いて頭に挿す。これが端午の装いである」と記している。古代朝鮮ではこの日を端午節と呼び、「国王がソウルの官吏たちに、竹の骨に紙を張り、鳥の絵を描き、五色の布とヨモギを絡ませて作った宮扇を下賜した」と当時の歳時記は書いている。

 

また、六世紀ごろの中国の書「荊楚歳時記」には、「五月五日は浴蘭節と言って、ヨモギで人形を作り、軒に掛けたり菖蒲酒を飲む」とある。 日本でもこの日に、菖蒲湯に入ったり、ヨモギを軒につるしたりする風習は関西地方や中国地方に多く残っている。 古代中国の蘭湯の風習をまねた菖蒲湯は、室町時代初期に始まったが、江戸時代には一 般庶民にまで広まった。大阪方面では、近世まで菖蒲やヨモギを束にして母屋や蔵の入り口のひさしに挿し、「女の屋根」と呼び、その下を「女の家」といった。近松門左衛門の「女殺油地獄」にも「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」とあり、この風習が近世の大阪に存在し ていたと分かる。

 

五日の女の日には、この女の家に集まった女性たちがにぎやかに飲食をして一夜を過ごしたのであろう。旧暦五月は田植え時でもあり、田植え前の物忌みと休息の日でもあったに違いない。地方によっては、この日は亭主のしりをたたいても許されるという不可思議な風習が残っている。 これならセクハラで告訴され る恐れもあるまい。

 

道教の影響を受け、古代中国や古代の朝鮮での疫病よけや長寿祈願などの行事が、飛鳥時代のころ日本に伝わり、 古来日本にあった習俗と混じり合って、徐々に端午の節句 の体裁が整っていった。

 

端午の節句が近付くと、五月晴れの大空に大きなこいのぼりや五色の吹き流しが泳ぐ風景が見られる。こいのぼりや吹き流しにも起源や言い伝えが残っている。

 

その一つは中国の楚の国の詩人、屈原の故事。ある年の五月五日、無実の罪に問われた屈原が、泪羅(べきら) 江に身を投じ、竜に食われて死んでしまったのをあわれみ、 紙のコイを作って祭ったことに始まるという。

 

また、中国黄河の上流にある竜門という難関を上り切ったコイは竜となって天に昇ることができるとの言い伝えもある。これにちなみ、子供の立身出世を願う親心がこいのぼりを飾らせたのだ。ちなみに 京都・嵐山の天竜寺境内にある滝を登竜門という。

 

本来は女の節句だったのが、日本独特の男の節句になったのは、武士が天下を取る近世以降のこと。菖蒲の読みが「尚武」に通じるところから、女の節句が男の節句に変わり、戦の時に立てる旗印がいつしか陰陽五行説の五色に染めた吹き流しに置き換わった。

 

五月五日に朝廷内で催されていた競(くら)べ馬の節会も、今ならきっとゴールデンウイークの一大イベントになることだろう。