背景

土御門家の歴史

安倍(土御門)家と陰陽道

 

陰陽道とは、森羅万象の成り立ちや因果関係を、天体含む自然現象の四季変化を観測した経験科学から、吉凶を判断する「太一陰陽五行思想」に基づく易の学問です。

 

あるゆる命を司どる司命神、全能神と称される泰山府君を主神とし、日月星辰の運行や方位を見、特殊な占法を用いて国家・社会や個人の吉凶禍福を判じ、あらゆる思考や行動上にその指針を得、日時・方角や人間の行為全般にわたる吉凶を読み解きます。

 

この陰陽道が、初めて正式に日本に伝来したのは『日本書紀』によると、継体天皇7年癸巳(513) 7月、日本から要請した百済の五経博士の渡来とともに入ってきたとされています。

 

養老2年戌午(718年)に、中務省の管轄の下に陰陽寮が設置されました。そこでは、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士、その配下に陰陽師等が置かれ、天文・暦数・風雲の気色等を常時、観測・占筮し天皇に奏したり、学生たちに陰陽五行思想の指導を行なっていました。

陰陽寮の初期は秦氏が勢力をもっていましたが、970年頃に賀茂忠行・保憲が賀茂光栄に暦道を、そして、安倍晴明公に天文道を伝え、ここに賀茂、安倍両家による天文、暦道の世襲支配体制が成立しました。

その後、賀茂家から暦道も安倍家が引き継ぐこととなり、天文・暦、両道の宗家として、安倍家が確立しました。ここから、陰陽寮の長官・次官をはじめとして陰陽博士等、安倍家の世襲が始まります。

 

土御門(安倍) 家の、この若狭国名田庄との関わりは、土天平8年(736) 12月13日付けの「若狭國名田庄を泰山府君祭料知行地とする」という聖武天皇の御倫旨に始まります。この年は、遣唐使として吉備真備が唐より帰国し、安倍仲麻呂から託された「大行暦」や多くの書物を朝廷に献上した翌年に当たります。

 

こうした唐からの伝来文化、信仰、習俗などはその後、都の朝廷、貴族を中心にしてどんどんと栄えて、陰陽道として発展していくことになりました。

 

現代日本においても陰陽道は、手相、九星気学、風水、四柱推命、算命術などの占い全般はもとより、華道、茶道、書道や香道、また能楽、歌舞伎などの伝統文化や芸術、そして、日常の様々な風習、習慣、年中行事など、私達日本人の生活の一部としてそれぞれに形を変えながら広く浸透し伝承されています。

 

土御門(安倍)家の遠祖

 

土御門家の遠祖、安倍氏が史上に脚光を浴びて登場するのは、遥か飛鳥の世に遡る、大化の改新の表舞台まで遡ります。孝徳天皇大化元年(645)6月14日、軽皇子が帝の位につかれ孝徳天皇となられ、中大兄皇子を皇太子に、安倍内麻呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を以て右大臣に、中臣鎌子(鎌足)を内臣に任じられました。

 

この新政治の中心人物の一人である左大臣安倍内麻呂(別名 倉梯麻呂)が、安倍(土御門)氏の遠祖にあたります。

倉梯麻呂は古代大和の大豪族安倍氏の直流であり、出自は8代孝元天皇皇子で四道将軍の一人、北陸道を巡察された大彦命の末裔とされています。また、倉梯麻呂の子女は、姉は孝徳天皇、妹は天智天皇の妃となっています。

 

 

名田庄と王朝文化

 

土御門家の名田庄居住と共にさまざまな都の文化がこの名田庄にも伝わってきました。
常日頃の朝晩の挨拶も、「お早ようさん」が「早いのう」。「今晩は」は「晩になったのう」他家への訪問には「ごめんな、おらんすかのう」等いたって悠長な言葉が用いられて、現在でも用いている人がいます。

また、「あなた」「あなたのところ」という場合、「そち」「そちのだれだれが」といった表現も多く用いられています。改まった人の来訪には「ござった(来られた)」親しい人の来訪には「ごんした」など中世の都の公家風の匂いもただよっています。

 

民間信仰においても、山の神、野の神の祀り、庚申信仰、各節供等も他所では見られないものが伝承されています。

なかでも陰陽道宗家ならではの信仰習俗は著しく、かつては朝廷や貴族しか信仰が許されず、日本一社とされる泰山府君尊神の奉祀や閻魔信仰。朝廷の信仰が特に厚かった京都の賀茂二社と貴船の神、祇園信仰にともなうスサノオと牛頭天王の蘇民将来などがあります。

 

また名田庄の神社に伝わる「神楽」の形態も古代朝鮮・中国の原型に類似していると指摘されています。過去には総勢 40人余りで舞ったと言われているが、現在ではその片鱗さえうかがい知ることは出来ない、土御門家のみに伝わる幻の「吉志の舞」を再び復元し、将来に伝承したいと考えています。

 

北極星と北斗七星を崇める鎮宅霊符信仰、北極星を宇宙の主神として伊勢神宮でも密かに行われていた「太一」信仰などそのすべてが陰陽道の秘儀です。土御門家の人々はこの名田庄に移住した後も、朝廷における陰陽寮の長官として、都と名田庄を頻繁に往来し、朝廷や将軍家のため の占術、伊勢神宮・斎宮斎女に関わる天文占いなども行なってきました。

 

土御門家の記録は、度重なる戦火にあい焼失したものも多くありますが、宮内庁書陵部や東京大學、京都資料館などにまだ数多く保管されています。他にも各地に未整理のまま散逸している資料も多く、そこでこういった資料や、名田庄に現存している古暦や文書、史蹟の保存をし、それらを地域外の多くの人たちにも展示し、知っていただこうと暦の資料館が名田庄にできました。各地から陰陽道・暦に関わる多くの資料がこの暦会館に収集され、当時用いられていた「香時計」などの作暦・天文観測用具なども収集し、保管展示に努めています。

 

 

安倍(土御門)家年表

 

大化元(645) 大化改新。安倍家太祖・安倍倉梯麿、初代の左大臣となる
霊亀2(676) 阿倍仲麻呂遣唐留学生として渡唐(19歳)
天平7(735) 吉備真備、唐にて仲麻呂より書等を託される
宝亀元(770) 仲麻呂唐にて没(70歳)
延暦13(794) 平安遷都。
天安2(858) 「五紀暦」採用
延喜21(921) 安倍晴明生まれる(後、安倍本流に入る)
天徳元(957) 「符天暦」仏僧により伝来
建久3(1192) 鎌倉幕府開く
天福元(1233) 地頭の荘園侵略激化する
正和4(1315) 花山院中納言、名田庄領主となり荘園統一
正和6(1317) 綸旨「泰山府君知行」(12.13)
正中元(1324) 正中の変起こる
正中2(1325) 安倍有弘若狭へ下向。綸旨「長日泰山府君知行」
喜暦元(1326) 名田庄に善積川上神社建立、政所管理
建武元(1334) 綸旨「若州名田庄土御門施入之事」(10.13)
建武2(1335) 安倍長親若狭へ下向
延元2(1338) 室町幕府開く
貞和2(1346) 綸旨「若狭住事」
正平3(1348) 綸旨「若狭名田庄上庄村住事」
観応2(1351) 綸旨「若州名田庄長日泰山府君祭料知行」(北朝より11.15)
文和4(1355) 綸旨「若州名田庄上村長日泰山府君祭料知行」(5.15)
貞治5(1366) 綸旨「若州名田庄上庄村住事」(9.21)
文中2(1373) 泰世、中納言となる
永享8(1433) 安倍有宣生まれる
宝徳2(1450) 善積川上神社再建(有宣18歳)
応仁元(1467) 応仁の乱起こる
文明5(1478) 善積川上神社の土御門家官人管理
長享2(1488) 従二位有宣、若狭下向(55歳)
文亀元(1501) 安倍有春生まれる
永正10(1513) 有宣の若狭在住に伴う高札(下知)(3.3)
大永5(1525) 従四位有春陰陽頭となる(25歳)
大永7(1527) 有脩、上村で生まれる。父有春27歳
天文3(1534) 有春、修理大夫兼陰陽頭となる(34歳)
天文11(1542) 有脩、陰陽頭となる(16歳)
弘治元(1555) 有春、京都帰殿。川中島の合戦
永禄元(1558) 名田庄大火。薬師堂焼失(12.1)
永禄3(1560) 久脩生まれる。父有脩34歳
永禄5(1562) 有脩、正式に土御門を称する
永禄9(1566) この頃、有春京都、若狭間の往来頻繁
永禄12(1569) 有春没(6.19)
元亀4(1573) 室町幕府滅びる。久脩、陰陽頭となる(14歳)
天正3(1575) 久脩、信長より朱印「上鳥羽拾石」(11.1)
天正5(1577) 久脩、信長より朱印「若狭領知行」(11.18)
天正10(1582) 久脩、信長と本能寺で会談、(23歳)その夜本能寺の変起こり信長没
慶長5(1600) 関ヶ原の戦い。久脩、勅命により若狭より上洛(41歳)
慶長6(1601) 京極宰相若狭一円の領主となる。土御門家若狭より京都に帰館
寛永2(1625) 泰重、若狭下向のおり土御門家墓所修復(7.25)
嘉永6(1853) 京都土御門殿にて、晴明八百五十回御神忌催行。納田終の土御門家墓所修復(8.吉日)
安政2(1855) 晴明八百五十回御神忌関連整備事業として納田終の天社泰山府君社再建(8.18)